• 2017_07
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_09

桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

スポンサーサイト

  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

事実を理論に当てはめるか、事実を見るために理論を使うか

  1. 2013/09/27(金) 21:29:15|
  2. 市民の会の意見
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5
ベルナールさんの御教示には感心するところが多いのですが、市民の会の1市民としては、少し異議を唱えたいと思います。
以下コメント。
「ご指摘のように、児童アンケートが極めて重大な性質を帯びていると思います。他のいじめ事件と本件の際だった違いは、その《公然性》です。「いじめが教師の目に触れないようこっそりと行われ、しかも、被害者がなかなか親や教師に救済を求めず一人でじっと堪えていることが多いとなると、教師に不法行為責任の成立を認め、学校設置者あるいは教師個人の法的責任を追求することは容易ではない」(藤村啓「『いじめ』とその法的問題」ジュリスト836号)わけですが、同じクラスの児童たちは、「クラスに泣いている子がいても先生は放置している」「態度の悪い子に強く注意をしない」等証言しています。

(私見)まずこのアンケートは主目的が学級についてのアンケートであり、原文は学校が破棄した(意図的にか?)ものであり、アンケートの全体を読んでからでないと、まだ結論は引き出せないと思います。

また、給食時に机を班単位にわけ、座る場所を児童たちの恣意に任せました。その結果、上村さんは一人孤立してしまい。その孤食常態が継続しました。新潟青陵大の碓井真史教授(心理学)は、「みんながグループで食べている中、客観的に見てこれだけわかりやすいいじめはない」(『読売新聞』2010年11月20日)と指摘しています。

(私見)机を班に分けて食べるのは、多分いつもそうで、その決められた席からヤンキー的な4,5名が勝手に移動し始めたと思います。ただ結果的に明子さんがどこのグループには入れないことは事実でした。

もちろん、児童間の親睦を深めてもらいたいという、担当教諭の主発点における善意は疑いを入れません。しかし、その意図は実現せず、試みは失敗しました。担任は、この段階で、机を授業時と同じ位置に戻すべきだったのです。

(私見)おそらくこの事案はさかのぼって、5年生の時の継続で、その時点から「手のつけられない学年」で野放図な雰囲気だったと思います。その時普通行われているように5,6年の持ち上がりをせず、いきなり1年生担任からコンバートする時点で、学校長の配置責任があると思われます。または、5年時の横山教諭はそこから逃げたのではないでしょうか。他の学校で得た私的な見聞でも、クラス替えや教諭の配置は教育的配慮よりも生々しく「負担を避ける」心理などが働いて決まるものです。

それがなされなかったために、上村さんは、「孤立させられ、『肉体的な拷問』ではなく『精神的な拷問』を受け」(加野芳正『なぜ、人は平気で『いじめ』をするのか』253頁)ることになったのです。それは、人間としての尊厳を傷つけ、侮辱されたまま放置されることに他なりません。

(私見)全く同意します。

「クラスに泣いている子がいても先生は放置している」「態度の悪い子に強く注意をしない」、そして孤食を放置する等々は、このいじめ事件の《公然性》を示すものであり、いじめがなかったなどと言い逃れすることはできません。

(私見)児童、保護者、教師、市教委の悪質さにおいては大津事件に匹敵すると思います。

おそらく、担任は、「いじめに気づかなかった」のではなく、「結果的に孤食を強いることがいじめである気づかなかった」のでしょう。桐生小学生いじめ事件が、他の事件と著しく異なっているのは、この「不作為の作為」といじめの《公然性》です」
(私見)担任が「結果的に孤食を強いることがいじめである気づかなかった」というのは、甘すぎるでしょう。しかし問題を担任に矮小化するとこの事件の全体を見失うと思います。今まで指摘されたように、地域の閉鎖性、外国人差別、倫理を失い、形式的管理に走る市教委、管理職、教師全体の背任行為を看過するおそれがあります。
担任教師はすべて責任をかぶされおそらく教育現場から抹殺されますが,そうさせる「公教育の意志」または悪意を裁かなければならないと思います。
またいじめ主犯格のA子についても裁判が提起されていますが、桐生市は早くから、A子の名前を突出させており、担任とこの二人をスケープゴートの隠れ蓑にして、他の「教育関係者」や児童、保護者は何もなかったふりをしてただただ時間と共にこの事件が忘れ去るのを待望しているでしょう。
その悪の手法にだまされてはいけないと思います。
関連記事
スポンサーサイト

  1. 2013/10/04(金) 21:21:25 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
(引用)「またいじめ主犯格のA子についても 裁判が提起されていますが、桐生市は早くから、A子の名前を突出させており、担任とこの二人をスケープゴートの隠れ蓑にして、他の『教育関係者』や児童、 保護者は何もなかったふりをしてただただ時間と共にこの事件が忘れ去るのを待望しているでしょう」

10月4日の前橋地裁桐生支部で第1回公判における、「1学期半ばからうつ症状を校長に訴えていた」という証人尋問に対する担当教諭の証言は、ブログ主さんのご指摘の正しさを立証するものでしょう。

この桐生いじめ事件は、明子さんへのいじめがあまりに悪質なものだったので、われわれは「生徒間のいじめ」に関心が集中しがちです。しかし、5年次から「荒れた」教室だとわかっていながら、線の細い女性教諭に学習困難学級を押しつけ、うつ病を発症させ、さらに病状を訴えても担任替えをしないというのは、ある意味で、「教員間のいじめ」でしないでしょうか?

弱い立場の末端の教員に責任を全部押しつけ、学校管理者や教育委員会が逃げを打つ、すなわち、抵抗するすべのないものに困難を押しつけるというのは、まさに教室内で明子さんに対してなされた「いじめ」ですが、それを取り囲むより大きな文脈のなかで、より強い立場にある管理職の教育関係者が一人の現場教師に困難を丸投げするという方の「いじめ」は、これまで見逃されがちでした。

「生徒間のいじめ」だけが前景化すると、「教員間のいじめ」が見えなくなります。「水平的な」平等の関係にある生徒間のいじめは糾弾されなくてはならないが、社会的に優位な立場を利用した「垂直的な」関係で発生したい教育関係者の間のいじめの方は見逃してもよいなどということがあるでしょうか?

われわれが見逃してはならないのは、ブログ主さんが真っ先に指摘されたこの視点でしょう。半歩後ろに下がってものの見方を変え、事件の全体像を俯瞰してみましょう。この事件は、「二重の」意味で深刻ないじめ事件なのです。

  1. 2013/09/28(土) 17:42:12 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
(続報等)
「いじめ防止推進対策法」の施行を受けて、大津のいじめ事件でご子息を亡くされたお父様が「何よりも現場の教師の方々に法の趣旨を正しく理解してもらいたい。子供の命を守り抜く使命感を持って意識改革してほしい」との期待感を示されています。

* 大津いじめ自殺:「子供の命守る使命感を」いじめ防止に(『毎日新聞』9月28日付)
http://mainichi.jp/select/news/20130928k0000e040177000c.html
* いじめ防止法施行 全学校に組織、調査義務も(『中国新聞』9月28日付)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201309280110.html
* いじめ対策推進基本法案は、いじめ問題の構造を変えられるか
http://synodos.jp/education/4329
* 『いじめ防止対策推進法』で何が変わるのか?

  1. 2013/09/28(土) 13:10:01 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
大人がゴニョゴニョと理屈をこねて、法律などでいじめがなくせると考えているあいだにも、命を落とそうかと苦しんでいる子供がいるよ。

  1. 2013/09/28(土) 08:31:50 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
「いじめ防止推進対策法」の施行について

あまたの子供たちの犠牲とひきかえに、「いじめ防止推進対策法」が6月28日に交付され、「公布の日から起算して三月を経過した」本日9月28日に施行されることになりました。

この法律で、とりわけ重要と思われる規定は、第三十四条の「いじめの事実が隠蔽されず、並びにいじめの実態の把握及びいじめに対する措置が適切に行われ」なければならないという点と、基本理念にある「児童等に対して行われるいじめを認識しながらこれを放置することがないよう」にという個所でしょう。

先に指摘されたように、桐生の事件(2010年)大津市の事件(2011年)とは、女子生徒による精神的暴力と男子生徒による直接暴力という違いはあっても、そのいじめの執拗さ・反復性・嗜虐性において際立っており、担任の無責任、学校管理者の保身、教育委員会による隠蔽等の事後の不手際においても前例のない悪質さを持っています。両者は、被害者が加害者に対して報復を受けても仕方がないようなことを一切していない、無辜の犠牲者であることも共通しています。「いじめられる方にも責任がある」といった俗論がいかに誤ったものであるかを教えるものです。

「いじめを放置してはならない」とは、たとえ自分と直接かかわりがないことであったとしても、いじめの犠牲者の傍観者であってはならないということでしょう。これは、英米法では「良きサマリア人法」として知られているものです。いうまでもなく、古代イスラエル社会でサマリア人がユダヤ人に敵対していたにもかかわらず、追いはぎにあったユダヤ人を「見て憐れに思い、傷の手当をして」介抱した福音書の逸話に由来しています。この精神は旧約に由来するもので、『レビ記』(19章16節)には「隣人の命にかかわる偽証をしてはならない」等の規定があります。

危難に遭遇している者の叫びは、誰であれその場に居合わせている者に対して、救いを求める召喚状とも言えます。桐生の事件では、元同級生の一人が、「いじめの中心になる子が何人かいて、ほかの子は何をされるか分からないから逆らえない」(『毎日新聞』2010年11月5日付)学級状態であったと証言しています。本来もっとも安全で、安心して勉学にいそしむべき教室が、「つぎは自分の番ではないか」という恐怖によって支配されていたのです。そしてこの恐怖心こそ、いじめの犠牲者を死に至らしめた一つの要因であったと言えるでしょう。いじめの対策を「施行後三年を目途として」見直すとした新法の法規定は、いじめを目撃した者が、いじめに対する恐怖心を克服する勇気に法的根拠を与えたものと言えるでしょう。

  1. 2013/09/27(金) 21:39:46 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
事件の全体像の把握ができず、バランスを欠いていた点に関するご指摘に感謝致します。私がとりわけ注目しているのは、最後にご指摘の「外国人差別」という点で、在特会に象徴されるような排外主義が放置されている時代状況を反映した事件だと考えております。

 管理者にだけ表示を許可する
 


.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。