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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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結局は人の在り方  法と人

  1. 2013/09/28(土) 21:21:35|
  2. 市民の会の意見
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8
いじめ対策法案が施行され、歓迎する人と信用しない人がいる。
これも役人が運用すれば、骨抜きや逆に利用される可能性がある。

弱者や個性を持つ者を、悪意の多数や粗暴な者を攻撃する。

これがいけないことは、経典やバイブルを読まずともわかること。

そうした健康な感覚がマヒした人間どもが作る集団や社会である限り
いじめ問題も解決しない。

しかし、希望もある。現行の法制でも新しい前橋地裁の裁判官のように
積極的に踏み込んで事実を明らかにする人がいる。

また某病院の小児科医でもすすんでこの問題に関わろうとする人もいる。

残念なのは一人としてこの問題に立ち向かう教員がいないことだ。

彼らは意見すら言わない。まさに「もう人ではない」。
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  1. 2013/10/01(火) 00:22:36 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
(引用1)「私の宗教理解は、キリスト教も含めて、「人類の生きてきた知恵や倫理などを集約した束」を伴う超越した存在への畏敬の念だと思っています」

まったくその通りだと思います。超越者を媒介することなしに、人間の人間としての平等の原則をうちたてた社会はありません。仏教やキリスト教に、人間の「平等」という思想があるのはそのためであり、「平等でないもの」を介在しなければ「平等」は達成できません。《法》とか契約などという媒介も世俗化された信仰のなごりでしょう。

しかし、先に示した事柄は、紹介させて頂いた加藤芳正(香川大学/教育学)が、『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?』のなかで、社会学者のルネ・ジラールの理論を借りて説明しているのとほとんど同じで、聖書のなかには、現代社会学の先端分野にも影響を与えている洞察があるというだけの話で、読み手がいかなる信仰を持っているかは関係ありません。

(引用2)「ですから。経典や旧約などに『書かれた知恵』があることは認めます。それが読む人の状況と内発的な感情や思想と切り結ぶことがあることも認めます」

これも、その通りだと思います。

(引用3)「しかし、善の意志や良心は(客観的に)生きている人々の内心にも存在しますし、それは書かれたものではなく実在する者です。イエスもシャカも民衆の中の善行を行うものを、知識や権威を振りかざし実は権力やカネや保身に走る者を批判したのではないでしょうか」

そのような二項対立はないと思います。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とマタイ(5:17-18)にある通りです。イエスとパリサイ派や律法学者との対立というのは、知的訓練の乏しい子供向きの説明であり、イエスもまたヒレル派のパリサイ神学に学びました。聖書に長々と律法学者たちとの対話があるのは仲間と思えばこそであり、そうでなければ、世俗的観点からは、田舎伝道師に過ぎないイエスを相手にするはずがありません。律法については、人間を生かすために柔軟に対応しようという人間臭さがヒレル派に学んだイエスの教えだと思います。

(引用4)いじめ問題は必然的に現行教育の全面的な評価と同時に、日本人の倫理にもつながって討議されるべきです。その点で私は、それぞれの立場で意見を言うことは良いと思います。

討議というのは、少なくとも「批判」と「誹謗中傷」が区別できる者の間でしか成立しないと思います。前者は必要ですが、後者は不要です。「悪いことをした相手なら何を言ってもいい」なんてことはありません。「形容詞的に」怒りを表明することなど何の効果もないばかりか有害ですらあり、大言壮語することなく、事実を冷静に提示し論証そのものが批判になっているような言説こそ求められるべきと考えます。

  1. 2013/09/30(月) 23:08:55 |
  2. URL |
  3. 市民の会
  4. [ 編集 ]
私の宗教理解は、キリスト教も含めて、「人類の生きてきた知恵や倫理などを集約した束」を伴う超越した存在への畏敬の念だと思っています。

ですから。経典や旧約などに「書かれた知恵」があることは認めます。それが読む人の状況と内発的な感情や思想と切り結ぶことがあることも認めます。

しかし、善の意志や良心は(客観的に)生きている人々の内心にも存在しますし、それは書かれたものではなく実在する者です。イエスもシャカも民衆の中の善行を行うものを、知識や権威を振りかざし実は権力やカネや保身に走る者を批判したのではないでしょうか。

いじめ問題は必然的に現行教育の全面的な評価と同時に、日本人の倫理にもつながって討議されるべきです。その点で私は、それぞれの立場で意見を言うことは良いと思います。

さらに仏教者も、自称教育者も、いじめ被害者もkの場を利用して言い尽くせばいいと思います。
決して中立を装うつもりはありません。あくまで1私人としての発言です。

  1. 2013/09/30(月) 22:24:27 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
あなたは「わかる」という意味がここでどういう意味で使われいるかわかっていない。そもそも、「脳の病気であり、実は要・治療なんだよ」「隔離して治療すること」なんていうのが、単なる誹謗中傷で、何の批判にもなっていないことがわかっていないな。

  1. 2013/09/30(月) 22:16:53 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
あのね、わからないヤツは、誰が言ってもわからないの。
経典やバイブルを読んでもわからないの。
経典やバイブルが特別なものだなんてのは、選民思想みたいなもので、形を変えた支配、強制、いじめと同じ。

弱いものいじめをして快楽を感じるのは、脳の病気であり、実は要・治療なんだよ。
必要なのは経典やバイブルではない。必要なのは(暴力的なことが防げなければ)隔離して治療すること。
経典やバイブルは脳の治療はできない。

  1. 2013/09/30(月) 18:56:47 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
(引用)「弱者や個性を持つ者を、悪意の多数や粗暴な者を攻撃する。これがいけないことは、経典やバイブルを読まずともわかること」

いえ、わからないと思います。代表的ないじめ事件に関するルポ等をかなりまとめて読んでみましたが、加害児童生徒がその後反省することは少ないようですから。

聖書は、まさに迫害する群衆に付和雷同することを禁じています。聖書のマルコの福音書に「ゲラサの悪魔憑き」という有名な逸話があります。悪霊に取り憑かれた男に、イエスは「名は何というのか」と尋ねます。それに対して、男は「名はレギオン。大勢だから」と応えています。新共同訳の聖書では、主語が省かれているのでわかりにくいが、この個所の原文は、「私の名はレギオン」という単数主語で始まる同じ声がすぐさま「われわれは大勢だから」と述べる破格の構文で記述されています。

このように聖書のおける悪霊は「多である一」という性格を持っています。また、ギリシア語で書かれたこの文に、キリスト教徒を迫害するローマ帝国の軍単位を示す「レギオン」(英語で「軍団」を意味する“legion”の語源)というラテン語由来の語を挿入して、注意を喚起していることも見逃すことができません。周知のように、イエスと出会った後、「汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群が崖を下って湖になだれこみ、湖の中で次々におぼれ死んだ」(5:13)とあります。

それでは、「レギオン」という言葉であらわされているものとは何でしょうか。
『知恵の書』(2:24)には「悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである」とあり、またユダヤ属州総督ピラトがイエスの処刑をためらった理由が「祭司長たちがイエスを引き渡したのはねたみのためだとわかっていたからである」(マルコ 15:6)とあるように、新旧約を通して聖書で一貫して非難されている最大のものは、人間に普遍的に起こりえる「ねたみ」の働きなのです。

祭司長がイエスに「ねたみ」を抱いたのは、自分たちが得たいと思っている民衆への絶大な影響力をイエスが所持していると考えたからです。そして、自分にはなく他者が所有していると想像されるものにたいする競合的な摸倣は、告発と暴力の応酬を生みだし、「十字架につけろ」と激高するイエスを迫害する群衆の間にたちまち蔓延してしまいます。群衆たちは、その疑惑と怨恨と憎悪の応酬のなかで、外部からは一人一人の見分けがつかなくなった分身のように、互いに似通ったものになってきます。

聖書のなかの悪魔とか悪霊とか呼ばれているものは、尻にしっぽが生えた怪物などではなく、「ねたみ」による競合的摸倣によって生み出された分身状態のことであり、その数は「多」であるが互いにあたかも同じ仮面をかぶったかのような「一」をなしている。マルコ伝の「レギオン」(軍隊)という語が意味するものは、まさにそのことであり、ジュネーヴ大学のジャン・スタロバンスキー(思想史)は、この「レギオン」に関して、適切にも、「軍団、敵軍、占領軍、ローマの侵略軍、そしておそらくはキリストを十字架につけた人々をも意味している」と指摘しています。

キリスト教に関する概説書などには、イエスは人類の罪を贖うために十字架に掛けられたなどとよく書いてあります。しかし、こういう説明は、あまりに抽象的であり、すでに信仰を受け入れている者にしかわかりません。しかし、新旧約を通して非難されている最大のものが何かを考えれば、イエスの架刑の意味は明解です。聖書がもっとも強く禁じているものは、「ねたみ」による競合的摸倣によって生み出された分身の群れに、すなわち迫害する群衆に身を投じてはならないということなのです。

「ねたみ」から迫害(いじめ)へとは、まさに桐生の小学校の教室で起こったことではありませんか?新里地区文化祭に出品した明子さんの絵「自画像」が佳作を受賞し授業参観で掲示されたときに、数人の男子児童が「お前の絵が佳作、ありえねえ」などと言ったという事実があります。きちっと勉強した洞察力のある教師なら、この「ねたみ」の発言の後に何が起こるか察知できるはずであり、「優れたものを認めないことは野蛮なことであり、うらやましかったら、あなたたちも努力しなさい」と指導すべきなのです。

教育の成功例として、よくフィンランド教育が持ち出されますが、フィンランドでは、小学校の教諭も大学院を出ているのです。「学校制度廃止」など愚の骨頂。ゆとり教育でそれでなくとも学力が低下しているのに、これ以上バカを増やしたら、日本は自滅します。資源にも食料にも乏しい日本が生き延びる道はは、唯一「教育」しかないのですから。ゆとり教育は、本当に大失敗であり、小学校から大学、大学院まで、もっともっと知育を徹底すべきだと思います。そうすれば、社会のあり方やいじめ(迫害)に対する洞察も生まれ、その悪循環から離脱できるわけで、社会や政治の分析から目をそらせる『心のノート』など即刻廃止すべきだと思います。

  1. 2013/09/29(日) 23:35:18 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
潔く学校制度を過ちであったと廃止すれば、例外的なエクセレンスなど求める必要もない。
はじめから求めていないけどね。
年端のいかない者に物を教えて給料もらおうなんて根性の奴らに、はじめから高潔さなんて期待するほうがおかしいのであり、そういう点でも長きに渡って人々は騙され、洗脳されてきたわけだ。

  1. 2013/09/29(日) 11:07:37 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
「最高善ではなく次善を求める」

いじめ対策法が施行されても「それも役人が運用すれば、骨抜きや逆に利用される可能性がある」というのは、ご指摘の通りだと思います。しかし、いじめ対策法が「ある」のと「ない」のとではどちらが良いかといえば、それは「ある」方がよいわけです。

もちろん、いじめなど思春期の子供たちの問題を快刀乱麻を断つ《金八先生》みたいな先生が各学校にいればよいですが、学校に《金八先生》がいる格率は、会社に《半沢直樹》がいるのと同程度ではないでしょうか。教職や公務員というのは、大抵一般人より高いモラルが期待されているので、不祥事が発生したときの「ガッカリ」度が甚だしいだけで、学校でも役所でも会社でも、その多くの構成員は、私のように、知的にも道徳的にも凡庸な人々ではないかと思います。時に目の前の問題を解決できずオロオロし、時に保身に走り、時に弱く卑怯であったりするのが大多数の人間で、教員や役人に例外的なエクセレンスを求めるのは、「百年河清を待つ」ことになりかねません。

また、市民活動といってもNPO専従でもない限り、大抵の大人は職業人であり、仕事と家庭で忙殺されているわけです。しかし、新聞や週刊誌で偶然事件をしった人々にも、「気の毒だ」「かわいそうだ」と思う方は少なからずいるわけで、社会を改良しようとする市民活動の正否の鍵は、そうした「知的にも道徳的にも凡庸な人々」の「小さな善意」の集積にかかっていると思います。

さて、最近山本修司さんが編集された『いじめを絶つ!毅然とした指導3』(教育開発研究所)という、2012年に刊行された本を読みました。この本の副題は、「子どもの命を守った現場教師たちの実践」で、豊富な具体例をあげていじめ対策の実践が書かれています。異なった場所で発生したいじめのメカニズムと展開は、驚くほどよく似ています。

そして、山本さんは、「問題行動に対して『まずは彼らの心情や背景をじっくりと理解しよう』などというピント外れの指導観が教師間に激しく叱責されないことをいいことにして児童生徒たちのモラルが低下し、学校の規律は乱れ、いじめの指導も徹底できないという状況が生まれる」とし、「改善の方向性は、一部の教員や教育評論家が主張するような『受容的・共感的』な指導であってはならない。そのような指導では絶対に事態を好転することはできないからである。いじめを迅速に解決することはできないからである。いじめを迅速に解決するためには、『何があろうとも、ダメなものはダメ』という毅然とした指導が必要」(12頁)と述べられています。

このブログの「いじめの事実」を拝見して、一つ気になったのが、集団登校の件です。明子さんが集団登校の班長のとき、「登校班に、自分の子供たちを一緒に行かせない保護者が複数いた」というところです。小学校の集団登校は、各地区で名簿を作っているはずで、この小さな出来事は、後の破局的事態の最初の兆候だった思います。明子さんへのいじめは、児童間だけでなく、その保護者も間接的加担していることを示しています。そしてこの欠班は、藤川大祐さんが指摘するように、「被害児童の家族がヨソモノとして差別されていた」(『いじめで子どもが壊れる前に』95頁)ことを端的に示しています。

「集団登校は、児童の安全確保という学校の指導の一貫でやっているものであり、病気等の当然の理由がない限り抜けられては困ります」と、学校側が毅然と指導すべきだったのです。こうした、小さな兆候に気づくか否かというのは、その教員が良い人だとか悪い人だということとは関係がありません。いじめに効果を上げた実践事例に学び、それらの指導方法を徹底することが肝要で、なぜそのルールを守らなければならないかが説得的に説明されなければなりません。

先の山本さんの指摘は、いじめの問題の核心を突いており、個人的には、思いやりのある優しい先生が悪しきクラスを作るということが往々にしてあるからです。いじめなどの問題の解決は、特定の職業に対する知的・道徳的エクセレンスの期待を捨て、問題解決の糸口を「人」や「心」にではなく、毅然とした指導方針の徹底に求めるべきと考えるゆえんです。

  1. 2013/09/28(土) 22:22:48 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
まさに、そのとおりで、法律を遵守する人間もいれば、法律の網の目をくぐる人間もいる。網の目をくぐるというのは、違反とは違うから「いじめと認識できませんでした」と見て見ぬふりをするのはこれにあたる。
人の心が失われている者に法律をあてがっても、実は無意味だ。
そして、法律で心を育てたり、強くすることはできない。
理論や理屈、教えだけで心を育てられないのと同じようにね。

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