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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

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学校のいじめへのアプローチ ベルナールさんのコメントに対して

  1. 2013/09/29(日) 13:02:59|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
ベルナールさんの意見に私見を述べます。
以下引用1(全文はコメント欄にあります)

「最高善ではなく次善を求める」
いじめ対策法が施行されても「それも役人が運用すれば、骨抜きや逆に利用される可能性がある」というのは、ご指摘の通りだと思います。しかし、いじめ対策法が「ある」のと「ない」のとではどちらが良いかといえば、それは「ある」方がよいわけです。

(私見)法の運用にかかっていると思います。

もちろん、いじめなど思春期の子供たちの問題を快刀乱麻を断つ《金八先生》みたいな先生が各学校にいればよいですが、学校に《金八先生》がいる格率は、会社に《半沢直樹》がいるのと同程度ではないでしょうか。教職や公務員というのは、大抵一般人より高いモラルが期待されているので、不祥事が発生したときの「ガッカリ」度が甚だしいだけで、学校でも役所でも会社でも、その多くの構成員は、私のように、知的にも道徳的にも凡庸な人々ではないかと思います。時に目の前の問題を解決できずオロオロし、時に保身に走り、時に弱く卑怯であったりするのが大多数の人間で、教員や役人に例外的なエクセレンスを求めるのは、「百年河清を待つ」ことになりかねません。

(私見)金八先生については、個人的には嫌いです。かなり低俗なモラルを押しつけるヒーローもので、ああいうものが逆に教育の大衆化を進め安直な日本人を作ったと思っています。半沢直樹は会社のコンプライアンスを実践しているだけで質が違います。
今問題なのは、教師や公務員のモラルが社会よりも低下していることにあります。エクセレンスはとうに求めてはいません。それよりも普通に働き、税に見合った仕事を市民に還元することや過ちの責任をとることです。
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  1. 2013/09/29(日) 14:30:00 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
引用「法の運用にかかっていると思います」

それは、もちろん当然です。私が申し上げたは、「ない」より「あっ」た方が良いということです。

引用「金八先生については、個人的には嫌いです。かなり低俗なモラルを押しつけるヒーローもので、ああいうものが逆に教育の大衆化を進め安直な日本人を作ったと思っています。半沢直樹は会社のコンプライアンスを実践しているだけで質が違います。今問題なのは、教師や公務員のモラルが社会よりも低下していることにあります。エクセレンスはとうに求めてはいません。それよりも普通に働き、税に見合った仕事を市民に還元することや過ちの責任をとることです」

「金八先生」とか「半沢直樹」とかは、卓越した個人として比較的知られているから、わかりやすい例として出しただけで、特に固有名に意味はありません、《夜回り先生》でも《GTO》でも何でも同じです。「今問題なのは、教師や公務員のモラルが社会よりも低下していることにあります」という点に関しましては、計る基準も個体差もまちまちなので、何とも申し上げられません。モラルが高い人も低い人もいると思います。教師や公務員以外の人々のモラルが高いなどという話は聞いたことがありません。

ただ、下のサイトにありますように、親が就かせたい職業の上位には、必ず公務員と教師があります。

http://www.kuraray.co.jp/enquete/occupation/2013/

おそらく理由は、景気に関係なく収入が安定しているので、一般にジェラシーの対象になりやすいということはあると思います。この点に関しましては、社会学者の小谷敏氏の『ジェラシーが支配する国』(高文研)という近著に鋭い分析があります。

私が申し上げたかったのは、問題解決に「人」や「心」が持ち出されるのは、どうとでもとれるあまりにも脇が甘すぎる議論であり、到底「事を為す」には至らないのではないかということです。

先に紹介させて頂いた本の「毅然とした指導」では、1〜11と心得が書いてあり、「やめさせられないいじめは存在しない」「校長は『覚悟』を決め、教員は『勇気』をもつ」「加害者ではなく、苦しむ被害者の立場に立つ」「受信する『アンテナ』ではなく、探索する『ソナー』を持つ」「児童生徒がいじめを告白・通報できる、頼りがいのある教員になる」「いじめの指導はスピードが命」「徹底的に真実を追究する」「一人で抱え込まないで、組織的指導を行う」「謝罪会を開催して集結させる」「本当の『反省』は、翌日からの行動の変容で証明される」「『いじめられない力・いじめさせない環境』づくりに取り組む」とあり、どの説明も具体的で、問題解決的なものです。

引用「残念なのは一人としてこの問題に立ち向かう教員がいないことだ。彼らは意見すら言わない。まさに『もう人ではない』。

最後の点ですが、大学の教員である社会学者や教育学者たちは、この問題にさかんに発言していますので、おそらく問題が起こったのと同じ、小学校の教員のことだと思いますが、そうしい先生の発言を求めるなら、まず「学校制度の廃止」「校長は、私からすると、死刑にして欲しい」「こういうガキしか育てられない親って、極刑でもいい」等々の無茶苦茶なコメントが何等非難されもせずに放置さていることは、疑問なしとしません。このような放言・暴言の類が書き込まれているところに、「私は小学校の教諭ですが。。。」と発言する方が出てくるとは思えませんから。

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