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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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裁判も信じない人たちの意識

  1. 2013/10/05(土) 10:30:27|
  2. 市民の会の意見
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
最近、桐生市の宗教指導者のこのいじめ問題への意見を人づてに聞いて愕然とした。
「あの事件は家族が悪いんだろう」という意見らしい。
 実は、ネットユーザーや地元の人は、事件直後からこの事件について
意図的に(と私は思っている)20年ほど前に新里で起きた家族に保険金をかけて
妻と子供を殺した殺人事件にひっかけて悪質な噂が流されたことを知っている。
その伝播は津波のように人々の口から耳へと流され、新里地区や桐生市に拡がった。
いろいろな集まりや飲み会でも面白おかしく語られた。
それに天理教指導者や、フィリピン人の間でも染まる人たちもいた。
私の聞いた範囲では、県北や桐生市内でも建築業者関係者などが意図的に流していたらしい。
そして地元の主婦層では、マスコミはウソを言っているとまで言う人もいる。
もしこの裁判で事実を詳細に調べ、うわさの根拠が覆されても、彼らの誤信は続く可能性が高い。

 裁判の初期は、N裁判長もそれと同じか茶化すような言動を連発していた。
「こんな裁判はたかが100万や200万」
「単なる悪口や一人で食べた給食ね」
「(いじめと自殺の関係は)風が吹けばおけ屋がもうかるというあれね」
「証人を何人も呼べばいいってもんじゃない。三流週刊誌じゃないんだから」

この人は自ら司法の威信を引き下げ、傍聴人を呆れさせた。
そして早くから裏で両弁護人の間を取り持ち、原告には秘密裏に和解工作をしていた。
ところが、原告が代理人を解任し、争う意思を表明すると、3月の異動時期にあっさりと退官した。

新しく民事二部の裁判長となった女性判事は方針を180度変え綿密な証拠調べを行い、証人尋問
も積極的に進めている。原告も支持者もそれこそ歩としている。裁判の勝ち負けはともかく(重要だが)
真摯に向き合うことには信頼感を置いている。

最初から学校も同じような誠実性を持てば裁判沙汰にもならなかったと思う。しかし、様々な隠蔽をし
地元住民の誰かが、意図的な悪い噂を流してきたのが今までである。

そしてもう新聞報道や裁判経過も信用せず、ひたすら「薄汚いうわさ」の染まっている(あえていう)愚民たち。
これはもうベルナールさんの言うような旧約の世界であり、邪教に染まった魑魅魍魎の世界だとも言える。

以上は1メンバーの私見です。


関連記事
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  1. 2013/10/05(土) 19:38:06 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
ブログ主さんが以前ご指摘のように、この悪質な「いじめ」事件は、ますますドストエフスキー的な悲喜劇の様相を呈して来ていますね。事後の対応では、登場人物があまりにも矮小なので呆然としますが。。。

ドストエフスキーの小説『悪霊』のはじめには、プーシキンの詩とルカによる福音の有名な《ゲラサの悪魔憑き》の個所が引用されています。

「悪霊に取り憑かれた」状態とは、相互摸倣のなかで内部で差異が消失して危機に陥った社会で、敵意や猜疑心で蔓延する暴力を排出するために、無実の人間を犠牲者に仕立てあげて、これに全員一致の集団暴力を加えることによってしか秩序を回復することができなくなった状態のことです。《悪霊》を描くドストエフスキーの小説に、欲望と権力に取り憑かれた悪魔的人物とそれと対照的な無垢の犠牲者がしばしば描かれるのは、そのためです。ドストエフスキーが《悪霊》という聖書、古代的比喩であらわしたものは、封建的で道徳的な教訓譚ではなく、まさにわれわれが住んでいる現代社会そのものなのです。

この暴力には、大津の事件のように直接の身体的暴力のようなものもあれば、桐生の事件のように嫉妬や妬みといった目に見えない暴力の場合もあります。

なぜ一人のものに暴力が集中するかといえば、一人を仲間はずれにして「いじめ」の対象にするかといえば、暴力を一人に集中させることによって、その犠牲者を除く子供たちの間では、一時的であるにせよ相互暴力が停止し、集団の秩序が回復されるからです。

しかし、秩序形成のための排除のメカニズムは、いつ何時自分がいじめられる側に回るかもしれないという不安と猜疑心を腐葉土として、止むことなく続けられます。明子さんの「以前にもXさんという児童がA子にいじめられ転校した」ことがそれを雄弁に物語っています。

クラス内が平均化、均一化してくると、児童生徒が互いに仲間であることを確認するために、他の子供とは一見異なった記号を持っているものが排除の対象に選ばれます。

2008年11月、文化祭で書道作品『元気な子』が金賞を獲得したとき、数名の児童が、「なんでよそから来たのが賞に入るんだ」と発言しています。また、2009年11月、明子さんの絵『自画像』が佳作を受賞し授業参観で掲示されたときには、数人の男子児童が『お前の絵が佳作、ありえねえ』などと言っています。また、2010年5月にいじめが悪化すると、「フィリピン外国人の娘」といわれて無視されるようになります。そして、9月18日に、明子さんはリレーの選手に選ばれると、数人の男子生徒が「外国人は足が速い」「ゴリラは足が速いんだ」と言っています。

言うまでもなく、絵や習字がうまかったり、走るのが速かったりする児童は、日本人にもたくさんいます。しかし、誰でも努力と練習によって程度の差はあれ向上するものに言及するときも、クラスの同級生たちは必ず、「よそから来た」者、「フィリピン」人、「外国人」等のヨソモノ性が強調します。

お母様がフィリピンからやって来た外国人であることは、例えば美術や体育における達成とは異なり、明子さんの意志や努力によって変更可能な事柄ではありません。つまり、いじめにかかわった児童たちは、変更可能な個人の能力を変更不可能な個人の属性によって説明しているのです。

桐生の小学校で起こった「いじめ」事件を根底で支えていたのは、明子さんのヨソモノ性を際立たせることによって仲間であることを確認しよういう差別意識であり、「いじめ」の出発点は、明子さんのあれこれの性質などではなく、変更不可能な事柄を根拠とした差別意識なのです。

  1. 2013/10/05(土) 17:58:34 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
最近見つけた、北海道で教育長だかなんかをやっているヤツのブログに「遺族が悲しみを何かにぶつけて気を晴らす」ために教育委員会や学校をたたく、なんてことコメントしていやがった。
常識人ぶって教育論語っていやがっても、教育関係者の意識なんてこんなものよ。

  1. 2013/10/05(土) 14:40:40 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
地域エゴ住民。私は逆の意味で法曹界、司法を信用していないけどね。

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