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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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いじめの分析と帰結 ① 討論の場として

  1. 2013/10/05(土) 22:37:18|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5
ここで私的所見を述べるのはおこがましいのですが、いじめ問題へのアプローチとしてベルナールさんのコメントについて意見を述べさせてください。ベルナールさんのコメントは○、私見は●以下です。

○「ブログ主さんが以前ご指摘のように、この悪質な「いじめ」事件は、ますますドストエフスキー的な悲喜劇の様相を呈して来ていますね。事後の対応では、登場人物があまりにも矮小なので呆然としますが。。。」
● 登場人物の様相は松本清張的あるいは佐木隆三的な小悪人の蠢きのように思います。

ドストエフスキーの小説『悪霊』のはじめには、プーシキンの詩とルカによる福音の有名な《ゲラサの悪魔憑き》の個所が引用されています。

「悪霊に取り憑かれた」状態とは、相互摸倣のなかで内部で差異が消失して危機に陥った社会で、敵意や猜疑心で蔓延する暴力を排出するために、無実の人間を犠牲者に仕立てあげて、これに全員一致の集団暴力を加えることによってしか秩序を回復することができなくなった状態のことです。《悪霊》を描くドストエフスキーの小説に、欲望と権力に取り憑かれた悪魔的人物とそれと対照的な無垢の犠牲者がしばしば描かれるのは、そのためです。ドストエフスキーが《悪霊》という聖書、古代的比喩であらわしたものは、封建的で道徳的な教訓譚ではなく、まさにわれわれが住んでいる現代社会そのものなのです。
● 正直「悪霊」について学生時代、またそれ以降も読み返しましたが、私には理解できませんでした。しかし、ベルナールさんの理解も、文学の社会科学的理解のように思えます。果たして集団の力学的な構造の問題で現代的な問題なのか私には疑問です。

○この暴力には、大津の事件のように直接の身体的暴力のようなものもあれば、桐生の事件のように嫉妬や妬みといった目に見えない暴力の場合もあります。
なぜ一人のものに暴力が集中するかといえば、一人を仲間はずれにして「いじめ」の対象にするかといえば、暴力を一人に集中させることによって、その犠牲者を除く子供たちの間では、一時的であるにせよ相互暴力が停止し、集団の秩序が回復されるからです。
しかし、秩序形成のための排除のメカニズムは、いつ何時自分がいじめられる側に回るかもしれないという不安と猜疑心を腐葉土として、止むことなく続けられます。明子さんの「以前にもXさんという児童がA子にいじめられ転校した」ことがそれを雄弁に物語っています。
クラス内が平均化、均一化してくると、児童生徒が互いに仲間であることを確認するために、他の子供とは一見異なった記号を持っているものが排除の対象に選ばれます。
●均一化した集団の中で、子供の心理に攻撃的心情が生まれ、異なった個人を標的と選び攻撃するという定式は、間違ってはいないと思いますが、そうしたときに近代公教育の論理が貫徹した結果の現象であり、そのアンチテーゼとして出てくるのは、ちゃりこ父さんのいう「学校なんていらない」あるいは私の言う「学校を疑う」という態度であると思いますが、不思議とベルナールさんの解決策は、「モラルを持った教師」
にしか行かないように思えます。
●2008年11月、文化祭で書道作品『元気な子』が金賞を獲得したとき、数名の児童が、「なんでよそから来たのが賞に入るんだ」と発言しています。また、2009年11月、明子さんの絵『自画像』が佳作を受賞し授業参観で掲示されたときには、数人の男子児童が『お前の絵が佳作、ありえねえ』などと言っています。また、2010年5月にいじめが悪化すると、「フィリピン外国人の娘」といわれて無視されるようになります。そして、9月18日に、明子さんはリレーの選手に選ばれると、数人の男子生徒が「外国人は足が速い」「ゴリラは足が速いんだ」と言っています。
言うまでもなく、絵や習字がうまかったり、走るのが速かったりする児童は、日本人にもたくさんいます。しかし、誰でも努力と練習によって程度の差はあれ向上するものに言及するときも、クラスの同級生たちは必ず、「よそから来た」者、「フィリピン」人、「外国人」等のヨソモノ性が強調します。
お母様がフィリピンからやって来た外国人であることは、例えば美術や体育における達成とは異なり、明子さんの意志や努力によって変更可能な事柄ではありません。つまり、いじめにかかわった児童たちは、変更可能な個人の能力を変更不可能な個人の属性によって説明しているのです。
●そんなに難しく言わなくとも、この地区の子供は大人と同じく排外意識の強い日本古来の「ムラ意識」の田舎者だと言った方がに近いと思いますが。

○桐生の小学校で起こった「いじめ」事件を根底で支えていたのは、明子さんのヨソモノ性を際立たせることによって仲間であることを確認しよういう差別意識であり、「いじめ」の出発点は、明子さんのあれこれの性質などではなく、変更不可能な事柄を根拠とした差別意識なのです。
● この事件の背景に「差別意識」があることには同意しますが、そこに還元するのはどうか。どうもその思考は物質に意識が規定されるという唯物史観に似ているように思えるのです。あるいは社会学史観というようなものに。
●私は、別に「差別問題」というようなのぼりを立てなくとも、このいじめ裁判には立ち向かえると思います。むしろ西部劇で、意気地のない保安官、または買収された保安官しかいない田舎町で、無法者が好き勝手にふるまい住民が小さくなっている。そんな情景が浮かびます。
●これは以前の意見欄でも書いたことですが、事実を見るに理論を参照するのはいいともいますが、事実を捨象して理論化すると、細部が消えてしまうように思えます。
●「差別と人権」問題について付け加えると、東毛地区(桐生市や太田市など)の人権教育は、群馬県の中では、力の入れ方がが極度に低い地区のようです。これは逆にベルナールさんの説を補強するようですね。しかしこの点について具体的な論証はまだ出来ません。どこか現代の横溝作品のようですね。
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Re: タイトルなし

  1. 2013/10/07(月) 23:06:41 |
  2. URL |
  3. 市民の会
  4. [ 編集 ]
> コメンテーターさん、をクリックすると、不正情報が含まれています、って出るのはなぜなんだろう。

理由が分かりません。ブログの構造が悪いのか、FC2の問題か、何かの妨害があるのか。

  1. 2013/10/06(日) 13:39:54 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
コメンテーターさん、をクリックすると、不正情報が含まれています、って出るのはなぜなんだろう。

  1. 2013/10/06(日) 11:49:06 |
  2. URL |
  3. コメンテーターさん
  4. [ 編集 ]
長い分析といってもせいぜい20,30分の書き込みだけです。辛抱してください。

いじめ自殺裁判2つと他にいじめ相談2件、そのほか医療過誤事件もやっています。そして仕事。庭掃除掃除洗濯も・・・。

大切なのは人々の意識を変えること。

  1. 2013/10/06(日) 11:33:39 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
私が前から言っている
寛容と放置のすり替え
空気を読んで迎合するということ

これが組み合わさったものが

団結と排外

この違いさえも理解のできない者が非常に多く、地域エゴPTA、さらに教師もそんなのしかいない。

よって
学校制度は廃止すべき

金銭もらって教育関係者をやっている者は撲滅すべき

長~い分析も結構だが、即効性のある対応をしないから、次から次へと子供が命を奪われる。いや、学校に殺される。

  1. 2013/10/06(日) 00:23:14 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
● 登場人物の様相は松本清張的あるいは佐木隆三的な小悪人の蠢きのように思います。
○ それは、そうですね。新たな証言や発見があるたびに脱力します。
● 正直「悪霊」について学生時代、またそれ以降も読み返しましたが、私には理解できませんでした。しかし、ベルナールさんの理解も、文学の社会科学的理解のように思えます。果たして集団の力学的な構造の問題で現代的な問題なのか私には疑問です。
○ 例えば、ご案内のオーウェルの『1984』が現代の管理主義的社会を予見していたように、文学的想像力にもとづくロマネスクな真実の方が、現実の事象をより深く理解したり、新たな社会的領野を切り開く場合は少なくなく、文学と社会科学というのは表現方法が異なるだけで、別の二つのものがあるわけではないと思います。『聖書』もまた、信仰の書であるとともに、《ゲラサの悪魔憑き》からエレミアの預言に至る例のように、人間と社会に対する今日なお新しい洞察を持つものだと思います。
●均一化した集団の中で、子供の心理に攻撃的心情が生まれ、異なった個人を標的と選び攻撃するという定式は、間違ってはいないと思いますが、そうしたときに近代公教育の論理が貫徹した結果の現象であり、そのアンチテーゼとして出てくるのは、ちゃりこ父さんのいう「学校なんていらない」あるいは私の言う「学校を疑う」という態度であると思いますが、不思議とベルナールさんの解決策は、「モラルを持った教師」にしか行かないように思えます。
○「学校を疑う」というご指摘が、学校制度をめぐる問題を懐疑的知性をもって検討に付すという意味にら賛成ですが、「学校なんていらない」などと極論には賛同できません。大学など高等教育機関を廃止せよというのなら、勿論断固反対です。高校以降は義務教育ではないわけですから、おそらくここでいう「学校」とは小中学校のことではないでしょうか。物事には短所も長所もあり、義務教育課程を各家庭に任せるとなれば、その手間も費用も莫大なものになり、各科を家庭教師に任せられる裕福な家庭とそうでない家庭との間に大きな学力差が出来てしまい、貧富の差はますます拡大してしまいます。ですから、現在の義務教育にも、あまり費用をかけないで基礎学力を養成するという長所はあるわけです。それに、ブログ主さんもご指摘の通り、「学級崩壊」は自然現象ではないし、日本の学校全体からすれば、まれな例外としてしか起こらないわけで、当然のことながら、それに対処する方法論も模索されています。また、「いじめ」を抑止するためには、その発生のメカニズムを知り、学級崩壊とその兆候を見極める方法を広く共有することが必要で、「モラルを持った教師」というよりも、社会事象を学齢に応じて説明し、「いじめ」に加担する空しさを教えることができる「知性を持った教師」の方をむしろ期待したいと思います。あまりにも幼い子供には、「おもいやり」とか「優しい心」とか言わなくてはならない場面もあるでしょうが、その際には、教員がそれが「過渡期の方便」であるという自覚をもっている必要があると思います。とにかく、「教育関係者」一般がダメだとか、「学校なんていらない」だとか、《坊主憎けりゃ袈裟まで憎い》式の感情論に与するつもりはありません。「卑劣」だの「諸悪の根源」だの形容詞的怒りを、1ダース並べようと2ダース並べようと、誰の共感を得ることもできないし、現実は1センチも動かず、言論における方法論的無策の空しさが残るだけだと思います。
● そんなに難しく言わなくとも、この地区の子供は大人と同じく排外意識の強い日本古来の「ムラ意識」の田舎者だと言った方が近いと思いますが。この事件の背景に「差別意識」があることには同意しますが、そこに還元するのはどうか。どうもその思考は物質に意識が規定されるという唯物史観に似ているように思えるのです。あるいは社会学史観というようなものに。私は、別に「差別問題」というようなのぼりを立てなくとも、このいじめ裁判には立ち向かえると思います。むしろ西部劇で、意気地のない保安官、または買収された保安官しかいない田舎町で、無法者が好き勝手にふるまい住民が小さくなっている。そんな情景が浮かびます。
○ 地域の事情については存じませんし、「いじめ」は都会の学校でも発生しますから、この点に関しましては何とも申し上げられません。一番ひっかかっているのは、地元のマスコミの動向で、ご承知の読売の特集をはじめ、朝日、毎日、産経等、日頃は思想信条によって対立しているメディアが精力的に取材しているのとは逆向きのような感じがします。最初の裁判での裁判官によるご案内の発言も、全国紙の記者たちも把握していたと思うのですが、あまりに内容がひどすぎて活字にできなかったのではないでしょうか。さまざまな情実や利害関係が動いているのではと常識的には想像しますが、実際に知らないことに関しては、軽々しい言及はできません。蛇足ですが、私はコミュニストではないので、「思考は物質に意識が規定されるという唯物史観」とか上部構造論などを前提にはしておりません。ただ、良い所があれば部分的には参考にさせて頂く程度です。

明子さんの死を無駄にしないということは、おそらくこのような「いじめ」事件が発生しないように衆知を集めるということでしょう。どんな人間も、自身がいかなる認識の枠組みにとらわれているかを自覚することはたやすいことではないので、ご指摘のように、さまざまな職業や専門の人間が、「それぞれの地点で、各自の感想は事件を多面的に捉え」ることはとても良いことであり、ブログ主さんのご努力に敬意を表させて頂きたいと存じます。

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