• 2017_07
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_09

桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

スポンサーサイト

  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

学校は社会の縮図 「楽しい学校」のヒント

  1. 2013/10/06(日) 22:03:48|
  2. 市民の会の意見
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
明子さんが望んだ「楽しい学校」を考えるときにヒントになる記事があったので抜粋する。

以下引用
「日本人が不幸になったのは…」山田洋次監督が語る“寅さん”と“東京五輪”
産経新聞 10月5日(土)12時44分配信
じゃあ(寅さんの)人気の理由は何なんだ、と。一つは、管理されていない状態にいる人間に対する憧れかな。今の時代は、本当に日本人がどんどん厳しく管理され始めている。映画館に行ったって、指定券見せて入って、入ったら私語は交わさないでくださいとか、盗撮は犯罪ですとかいろいろとある。そういう窮屈さを今、日本人は感じ始めているのではないか。それは今のこの国の政治状況からいって、どんどん窮屈になるんじゃないかと思う。そんな中で寅さんは自由で、なんの拘束も受けない。それは発想が自由ということ。考え方がだんだん管理されているということが一番怖いことです。寅さんの発想は管理されていないから、極めて自由である。

「(寅さんのキャラクターは)2人で作ったんだよ。渥美清という人間から触発されて、この寅さんというキャラクターはますます膨らんでいった。渥美さんは自由な人だったんじゃないかな。あの人はおそらく、どこにも所属したことがないんじゃないか。拘束されるのは似合わないし、誰にも縛られない。考え方も縛られない」
 --戦後は
 「復興の時代。(昭和39年の)オリンピックまで。このころ、もう一回自分たちの生活を回復しようと思って、日本人は一生懸命頑張った。それまで日本人が築いてきた生活をもう一度取り戻そうと。昭和20年代から30年代にかけて、あの時代が僕は本当に懐かしい。みんな元気で、子供がいっぱいいて。あのころの写真は本当に子供がいっぱい写っているよね。小さいお店がたくさんある。乾物屋さんとか、小間物屋さん、魚屋さん、八百屋さん。あの時代は日本人は元気だったんじゃないかな。労働組合も元気だったし、学生運動も盛んだったし。そういう活気にあふれていた」
 --では東京五輪以後は…
 「高度成長になって、競争社会になっていく。学歴社会になり、管理社会への道が始まっていくんじゃないかなあ。風景もどんどん味気なくなってきたし」
 --番組では「オリンピックが日本をめちゃくちゃにした」と言われてましたね
 「めちゃくちゃにしましたよ。この国がどういう国であるべきかというイメージがあのとき作られなかったことに問題がある。だから、モータリゼーションもあるし、日本中に高速道路を走らせ、何千億も金をかけて道をつくり、車に乗って日本中が移動しだす。どんどん線路が消えていく。そのことで幸せになったのか、ということがある」

以上引用。

多分、大正から昭和初期、そして戦後と庶民の生活が総体的安定期を迎えた中で、日本的(多分アジア的な雑踏に欧米文化をミックスして娯楽や大衆文化も栄え、そこでの近隣の人間関係の中で「面白い人間が多様に同居した」

こういった世相があり、学校も結構呑気で、職員室で囲碁や将棋をしたり、芋の煮っ転がしをストーブで似ていたりした。
ところが
196?年 中教審「期待される人間像」
1964年 東京五輪
そのころ学力テストやあの偏差値導入

おそらく現在の学校の腐敗と、イライラした攻撃的心情に満ちた教室空間は
これと無関係でないし、
そこから学区を元に戻すヒントも出てくるのではないか。


関連記事
スポンサーサイト

  1. 2013/10/07(月) 21:22:04 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
「期待される人間像」(中教審答申、1966年文部省出版)をまとめるのに中心的役割を果たした高坂正顕は、「国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である」と述べており、大衆消費社会において希薄化する「国家」中心の教育観を再構築しようとしました。高坂の「国家」感に関しては、『歴史的世界』(1937)のなかで、「国家が道徳勢力であり、道徳的自由であるのは、却って道徳的課題としての民族と領土とを、即ち血と土とを自己の基体とするが故」であると述べられています。このナチスさながらの「血と土」を基体とした国家主義的イデオロギーこそ、日本の高度経済成長という共通の国家目標を支えた「偏差値」教育を推進したものであり、それはまっすぐ『心のノート』による内面の管理(「愛国心」の数値化)に直結しています。つまり、現在の子供たちは、心のなかにも《監視カメラ》が付けられているわけです。この日本型管理主義で驚かされるのは、オーウェルやミシェル・フーコーさえ想像できなかったその徹底ぶりでしょう。日本中に監視カメラが配置され、一体誰が何のために誰を監視しているのかわからない疑心暗鬼のなかで、傷つけ傷つけ合う社会、それがわれわれの住んでいる日本という国です。通勤通学の際、われわれは毎日「不審者、不審物を見かけたら通報して下さい」という警報を聞いて暮らしています。一体「誰にとっての」不審なのでしょう?妄想的敵意が乱反射するのが常態の社会には、自由の空気が足りません。「強制収容所」とは、われわれが住んでいる社会の異名なのです。

  1. 2013/10/06(日) 23:45:11 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
管理されないためには私達のようにかなりあがかないといけない。そして、かなりの嫌がらせが待っている。そんな世の中である。

 管理者にだけ表示を許可する
 


.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。