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ドンキホーテと風車 1市民がベルナールさんのコメントを読んで

  1. 2013/10/08(火) 00:14:03|
  2. 市民の会の意見
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
 最初に、カトリックとは思えないような、ベルナールさんのコメントを読んでびっくりしました。ラディカルだなあと。おおむね立論に賛成なのですが、なにか言いたい性分なので書きます。
 このような論調は60年代末から70年代にかけて筑紫哲也氏が編集長をしていた「朝日ジャーナル」で展開していた毛沢東主義、全共闘賛美、大学解体論などと似ているような気がします。そのとき学生を煽っていた筑紫氏がクエーカー教徒で、TBSキャスターで出てきたときにはまたびっくりしました。中間層で良識派でブレザーも髪形も決まっていて、「この人は本当の詐欺師」だと思いました。
 私がベルナールさんの論調にいつも思うことの繰り返しですが、おんぼろの風車を立派な騎士と勘違いして戦いを挑むドンキホーテの挑戦は結局「幻想」に捕らわれているといことです。
日本の現実を見るのに理論は参考になるが、もっとリアルに細部にこだわってみる必要があると思います。
そういう視点で私見を述べます。

以下引用○、私見●
○「期待される人間像」(中教審答申、1966年文部省出版)をまとめるのに中心的役割を果たした高坂正顕は、「国家を正しく愛することが国家に対する忠誠である」と述べており、大衆消費社会において希薄化する「国家」中心の教育観を再構築しようとしました。高坂の「国家」感に関しては、『歴史的世界』(1937)のなかで、「国家が道徳勢力であり、道徳的自由であるのは、却って道徳的課題としての民族と領土とを、即ち血と土とを自己の基体とするが故」であると述べられています。
●ベルナールさんの正確な文献引用は、私も学びたいです。
●高坂正顕氏の文章こそがドイツ語の邦語訳のようで、陳腐で論理性も扇動性もない事がわかります。こんな三流哲学伝道師に教育政策を書かせること自体が日本の恥ですね。

○このナチスさながらの「血と土」を基体とした国家主義的イデオロギーこそ、日本の高度経済成長という共通の国家目標を支えた「偏差値」教育を推進したものであり、
●これは少し論理の運び方に無理があるでしょう。日本人はかってイデオロギーで動いたことのない「雑炊型」民族です。それよりも、ドイツ型国家主義のまね+神国日本を崇める復古神道+経団連の安くて優秀な労働力作り+ノウハウてな方法を学問だと考えるアメリカ的「教育工学」、そうした一ぱ一からげの政策を、無意味でも崇めたてまつる無機的な中央官僚と、軍国教師から民主教師や左翼教師にコロコロ姿を変えるカメレオンの地方公務員の群れが蟻のように行列をなして推進しただけでしょう。
彼らは「蟻の耳に念仏」ですから、イデオロギーには関心がなくて(死んだコオロギは好き)、看板が欲しいだけなのです。

○それはまっすぐ『心のノート』による内面の管理(「愛国心」の数値化)に直結しています。 
●心のノートにこだわっていますが、もっと詳しく展開してください。単なる感想帳じゃないんですか。

○つまり、現在の子供たちは、心のなかにも《監視カメラ》が付けられているわけです。この日本型管理主義で驚かされるのは、オーウェルやミシェル・フーコーさえ想像できなかったその徹底ぶりでしょう。日本中に監視カメラが配置され、一体誰が何のために誰を監視しているのかわからない疑心暗鬼のなかで、傷つけ傷つけ合う社会、それがわれわれの住んでいる日本という国です。通勤通学の際、われわれは毎日「不審者、不審物を見かけたら通報して下さい」という警報を聞いて暮らしています。一体「誰にとっての」不審なのでしょう?妄想的敵意が乱反射するのが常態の社会には、自由の空気が足りません。「強制収容所」とは、われわれが住んでいる社会の異名なのです。

○「監視カメラで監視されている」という意識が植え付けられている。とうほうが正確ではないでしょうか。
現代の子供の心は私には到底見えません。もっとアプローチしないと。
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  1. 2013/10/08(火) 06:57:51 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
● ラディカルだなあと。おおむね立論に賛成なのですが、なにか言いたい性分なので書きます。このような論調は60年代末から70年代にかけて筑紫哲也氏が編集長をしていた「朝日ジャーナル」で展開していたなどと似ているような気がします。そのとき学生を煽っていた筑紫氏がクエーカー教徒で、TBSキャスターで出てきたときにはまたびっくりしました。中間層で良識派でブレザーも髪形も決まっていて、「この人は本当 の詐欺師」だと思いました。
○ ブログ主さんの文章は面白いので、ユーモアのセンスに学びたいと思います。ただ、失礼ながら一言いわせて頂ければ、想像力が豊かすぎるのが欠点だと思います。「毛沢東主義、全共闘賛美、大学解体論」にはどれも反対で、いかなる種類の全体主義にも与するつもりはなく、また真面目に学ぶ学生が好きですね。それから、世界の人口の数人に一人はカトリックであり、明子さんのお母様の母国であるフィリピンはもちろん、イタリアやフランス、ブラジルやアルゼンチンなど西欧や南米では、国民の大多数がカトリックの国はいくらもありますから、何か一つ傾向性をもってお考えにならない方がよいと思います。カトリックには、三浦朱門のような保守的な人もいれば、加藤周一のような左翼的な人も幅広くいます。信徒がすべて特定の政党に投票するような新興宗教とは違うのです。

● 高坂正顕氏の文章こそがドイツ語の邦語訳のようで、陳腐で論理性も扇動性もない事がわかります。こんな三流哲学伝道師に教育政策を書かせること自体が日本の恥ですね。
○ これはそうですね。“sondern”という語を見ると一つの逐語訳しか思いつかない、出来の悪い学生の文章みたいですね。ご子息の方はとても優秀で、翻訳も上手ですね。

● 心のノートにこだわっていますが、もっと詳しく展開してください。単なる感想帳じゃないんですか。監視カメラで監視されている」という意識が植え付けられている。とうほうが正確ではないでしょうか。現代の子供の心は私には到底見えません。もっとアプローチしないと。
○ まあ TPO というものもあり、このブログの趣旨からどんどん離れてもいけないので、機会と時間があるときにでも、そうさせて頂きたいと思います。

それで、本筋に戻りますが、明子さんが望んだ「楽しい学校」の件ですが、それは、残された漫画『やっぱり「友達」っていいな』によくあらわれていると思います。転校してきた「関口桜」という主人公が、「これからよろしくお願いします」とあいさつし、担任教諭が「転校生なので仲良くしてあげてください」などと紹介する場面が描かれていますね。

要するに、これは日本のどこにでもあるフツーの学校です。明子さんの学級には、担当教諭に対して「うるせー、くそばばあ」と言ったり、勝手に教室から出ていったり、「授業中に鏡を出して髪の毛をいじる子がいる」等々と、2010年11月22日の『朝日新聞』は報じています。この学級状況は、どう考えてもフツーではありませんし、ほとんどの日本人が見たことも聞いたことも、またうわさで聞いたこともないような崩壊状態です。このような学級は、スポコン漫画にでも出てくるような気力・体力の充実した男性教諭でないと担当は無理でしょう。

担任の先生は、悪い人とは思えません。むしろ優しい先生で、それが裏目に出たのでしょう。しかも、1学期にすでにうつ病を発症していたそうですから、直ちに交替させるべきだったのです。どうもこの学級の児童たちは、先生を対等の「友だち」か何かと勘違いしているようです。このような「なれあい型」(河村茂雄/教育学)の学級が崩壊するのは自明であり、教室が騒がしいときに「静かにしなさい!」と先生が指示を与えることができるのは、そもそも、先生と生徒が対等の関係にないからです。

つまり、児童生徒間が「対等の関係にある」ということは、先生と生徒との関係が「対等でない」ことによって担保されているわけです。こういう当たり前のことがわからない者が、「教育関係者はダメ」とか「学校なんていらない」などという、ムチャクチャな暴論によって議論を妨げているようでは、意義ある討議は望み薄だなというのが率直な感想です。日本のような小さな島国からノーベル賞を受賞するような学者や作家が輩出する基礎をつくったのも、優れた学校教育の成果以外の何ものでもありません。

残された漫画には、「児童が反発することなく担任の話に耳を傾けている」学級の様子が描かれており、尾木直樹は、これが「彼女の理想の世界」であったと分析し、「現実があまりに違っていたため、続きを書くことができなかった」(『読売新聞』2010年11月17日)と指摘されていますが、同感です。明子さんが望んだ学級は、日本のどこにでもある「児童が反発することなく担任の話に耳を傾けている」学級であり、しかし実際の学級は、あまりにも異例ずくめの崩壊状態であったわけです。編年体に事件を整理して読んでみると、少なくとも最悪の事態を避ける機会は何回もあったと思います。新聞に時々、明子さんの部屋の写真が載りますが、12歳の普通の女の子の部屋ですね。普通の女の子が、ごく一般的な学校生活を送り、小さな幸せを得る可能性は確実にあったのです。かわいそうでなりません。

ブログ主さんもご指摘のように、「学級崩壊」は自然現象ではありません。それは、極めてまれな例外的条件が重なったときにしか発生せず、私自身も、見たことも聞いたことも、うわさに聞いたことさえありません。ただ、新聞や雑誌、書籍等で目にして、はじめて知ったわけです。極めてまれな例外状況から、日本の教育一般に関して演繹するのは、飛躍がありすぎます。

とりあえずよいと思えることは、いじめに関する法律ができ、日本全体がこの問題に真剣に向き合う前兆が見えてことでしょう。

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