• 2017_07
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_09

桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

スポンサーサイト

  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ラベルや形容詞に注意

  1. 2013/10/10(木) 04:53:31|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
前掲したベルナールさんの現行教育肯定論にひとこと

戦後日本の教育史の中で、境小学校の斎藤キハク氏の教育実践をほめる者が多く、信者のような
人がいたのも知っています。また全集の一部も読みました。
しかし、ちゃりこ父さんがいうように、アララギでもカササギでどちらでもいいという気がします。
書かれた歌も秀逸なものでしょうか?川東何某の「へをひってもひとり」の方が良いと思えます。(鑑賞は主観ですから)。

 それよりも、斎藤キハク、熱中先生、金八先生、と連綿の名教師が臭気ぷんぷんなのは、その自己陶酔です。
普通の市民、あるいは庶民でなく、奇矯な性格の持ち主が、公教育を利用して、児童生徒を利用して自己実現を図るという劇場型の教育スタイルに私は疑問を持つのです。

 私自身も数少ない自分の経験(敬虔は変換マチガイ)で、自己陶酔型教師を何人か見ました。多くは行事が好きで、子供を感動させることが好きで、自分も安っぽい涙を流してました。御自宅の本屋にはなぜか漫画が「蔵書」としてありました。
そういう人は校長になると「何中魂」とかいって新しいTシャツを作るのが好きで,格言として「ひとりはみんなのためにみんあはひとりのために」というチュートン騎士団の言葉を飾ってました。そして子供たちは教師によってある種の「燃え尽き症候群」を経験しその後「冷めたジェネレーション」がやってきました。

ベルナールさんは御自分の感激し安いインテリだった青春時代を懐かしんでいるように思います。「こんなことあってはならない、勉強不足だ」といきどおっているようです。
しかし、基本的に「人間形成の教育」は、学校でなされるものではないでしょう。各家庭の父ちゃん母ちゃんや兄弟のおかず争い、遊び集団の面倒見のいいボスなどの育みのなかでなされたものでしょう。生徒は彫刻家の素材ではないし、卓越した指導者についていく子羊ではないと思います。そういったキリスト教的人間観を善とするベルナールさんは、イスラム今日のハジ達をどう見るのでしょうか?またレーニン・スターリン・毛沢東などともてはやされた個人崇拝は好きなのではないでしょうか?


関連記事
スポンサーサイト

  1. 2013/10/10(木) 09:41:03 |
  2. URL |
  3. 市民の会
  4. [ 編集 ]
ベルナールさん。記事の「敬虔」の部分は訂正しました。

  1. 2013/10/10(木) 07:38:34 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
は~い、みんなあ、ちゅうも~く!(金八センセー風に)いいですかあ~、学校行事というのは、基本的に、校長がつつがなく遂行しましたよ、ということを、教育委員会に報告するためにそんざいしてるんですっ!だからあ、卒業式の正式名称は「卒業証書授与式」なんです。後は、良くあるのは、脳みそ筋肉体育教師の自慰行為ですね。熱中症とかを量産します。いいですかあ~、センセーたちは、子供や生徒がだいじなわけじゃあないんです!自分たちの身分、生活、立場、それがだいじなんですっ!だから、嘘をつくんです、隠蔽をするんです。センセーたちはねえ、腐ったみかんなんですようっ!この、ばかちんがあ!ちなみに、人という字は支えあってできている、と間違いを教えたのも、きんぱっつあんじゃなかったかな?あれは、一人で大地を踏みしめている字です。

  1. 2013/10/10(木) 06:47:16 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
● 戦後日本の教育史の中で、境小学校の斎藤キハク氏の教育実践をほめる者が多く、信者のような人がいたのも知っています。また全集の一部も読みました。しかし、ちゃりこ父さんがいうように、アララギでもカササギでどちらでもいいという気がします。書かれた歌も秀逸なものでしょうか?川東何某の「へをひってもひとり」の方が良いと思えます。(鑑賞は主観ですから)。
○ う〜ん、どうなんでしょうか。秀逸な歌を選んで、文学的に観賞するなら、それは月刊『國文學』あたりに投稿されるべきなのではないでしょうか。何事にも、文脈や TPO がございますので。

● それよりも、斎藤キハク、熱中先生、金八先生、と連綿の名教師が臭気ぷんぷんなのは、その自己陶酔です。普通の市民、あるいは庶民でなく、奇矯な性格の持ち主が、公教育を利用して、児童生徒を利用して自己実現を図るという劇場型の教育スタイルに私は疑問を持つのです。
○ 「普通の市民、あるいは庶民」というが、具体的に何を指すのかわかりませんので、何とも申し上げられません。また、斎藤キハクはともかく、「熱中先生、金八先生」は、フィクションの中の人物なので、実際にああいう先生はいないでしょう。しかし少なくとも、何かしら「問題提起」があるだけでも、陳腐・凡庸・退屈な教師よりはマシなような気がします。少なくとも、あれだけの熱意がある先生なら、いじめられている子供を見捨てたりはしないでしょう。

● 私自身も数少ない敬虔で、自己陶酔型教師を何人か見ました。多くは行事が好きで、子供を感動させることが好きで、自分も安っぽい涙を流してました。御自宅の本屋にはなぜか漫画が「蔵書」としてありました。そういう人は校長になると「何中魂」とかいって新しいTシャツを作るのが好きで,格言として「」というチュートン騎士団の言葉を飾ってました。そして子供たちは教師によってある種の「燃え尽き症候群」を経験しその後「冷めたジェネレーション」がやってきました。その
○ 敬虔とは「うやまいつつしむ気持ちの深いさま」の謂いですから、常識的には「自己陶酔」とは反対概念だと思います。「ひとりはみんなのためにみんなはひとりのために」(un pour tous, tous pour un)とは、アレクサンドル・デュマの『三銃士』に出てくるダルタニャンたちの合言葉と思っていましたが、チュートン騎士団由来でしたか。それはともかく、その校長先生は面白い方のようですね。子供は面白いことが好きですから、子供たちは、おそらく一種の「ユーモア」ととらえたのではないでしょうか。学校から子供が持ち帰る学級通信には、大抵「ひとりはみんなのためにみんなはひとりのために」といった類いの、大人から見ると毒にも薬にもならない標語が書かれています。小中学生に理解できることは限られていますし、大人の社会の理解度で考えても仕方のないことだと思います。

● ベルナールさんは御自分の感激し安いインテリだった青春時代を懐かしんでいるように思います。「こんなことあってはならない、勉強不足だ」といきどおっているようです。しかし、基本的に「人間形成の教育」は、学校でなされるものではないでしょう。各家庭の父ちゃん母ちゃんや兄弟のおかず争い、遊び集団の面倒見のいいボスなどの育みのなかでなされたものでしょう。生徒は彫刻家の素材ではないし、卓越した指導者についていく子羊ではないと思います。そういったキリスト教的人間観を善とするベルナールさんは、イスラム今日のハジ達をどう見るのでしょうか?またレーニン・スターリン・毛沢東などともてはやされた個人崇拝は好きなのではないでしょうか?
○ 「基本的に『人間形成の教育』は、学校でなされるものではない」とはご指摘の通りだと思いますが、それがどこでなされるかは各人各様だと思います。ブログ主さんは、どうもキリスト教のことをあまりよくご存じではないのではないでしょうか。10億人以上いるカトリックのなかで、「レーニン・スターリン・毛沢東」が好きな信者は、限りなくゼロに近いと思います。北朝鮮とバチカンは国交がありません。また、中国共産党の御用組織「中国天主教愛国会」を、カトリック教会は認めていません。『旧約聖書』の「出エジプト記」第20章には、ご承知のように、モーセの十戒があり、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と規定されています。いかなる「個人崇拝」もこの第一戒に反する偶像崇拝であり、キリスト教徒が神以外を「崇拝」することはありません。もちろん、国家も民族も、およそ名前を持つものはすべて偶像です。

 管理者にだけ表示を許可する
 


.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。