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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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いじめ問題の階層別分析へのコメント

  1. 2013/10/18(金) 08:29:00|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
いじめ問題の階層別分析へのコメントを転記します。
(掲載は投稿時間の順)
ちゃりこ父さん
市民の会さんの、この分析、ほとんど異議はありません。 私の言葉が市民の会さんより、多少(いいですか、多少、ですからね)荒く、大雑把なのは、分析したり評論したり傍観したりする大人向けではないからです。ちゃりこと私の経験を踏まえ、自分達がいちばん追い込まれたとき、もっともっと追い込まれ殺された人たちのことを念頭において、私は語っています。福沢諭吉やアダムスミス、ニュルンベルグ法は、知ってはいても、苦しんでいる子供や親の役に立たないことを実感としてわかっています。

ベルナールさん
概ね賛成なのですが、1〜8までの分析では、いじめという問題と事後の学校や教育委員会の対応の問題等々が混在しているので、これは本来別個に論じられるべきものではないかと存じます。
● 公教育の思想、構造全体に関わる問題。もともとの公教育の成立自体が、国家の要請で「国民」を作る目的だった。多数を集め階層別(クラスという名の起こり)に訓練する。偏差値によって分布し競わせる教育。
○「もともとの公教育の成立自体が、国家の要請で『国民』を作る目的」というご指摘はその通りだと思いますが、これは「国民国家」の創設をめぐる壮大な問題なので、別枠で論じられるべきものだと思います。近代の学校において、「納税」と「徴兵」という義務遂行を容易ならしめるために、人工的に造られた標準語を強制され、例えば沖縄などでは、方言を話した生徒には「方言札」を首から吊し懲戒したことからも自明でしょう。また、詰め襟、セーラー服、ドリル(軍事教練)等々、学校をめぐる状況が軍事用語で記述されているのも、近代の学校制度が軍をモデルにしていることのわかりやすい例でしょう。廉価で基礎的な知識を身につけられるという長所をとり、さらに発展させ、短所を改善するか捨てるかすれば良いということだけです。最後のご指摘は重要な点で、いわゆる「学力別クラス」の失敗から学ぶべきことは多いと思います。
● 実施教育行政レベルの問題。主に県単位で、体力づくり、エリートづくり、学校ビジネスへの組み込み。無意味な教育委員会または教育委員会の骨抜きという政策。PTAを名誉職化して学校に組み込む。地域や市町村教育委員会、教員組合の問題。地域ボスと結びつき教員人事やPTAなどを支配する黒い裏世界。組合幹部とのなれ合い。生徒の被害よりも身内の保身を優先させる労働組合の体質。行政寄りの司法、悪徳弁護士との裏取引。教育委員会や各種学校などの天下り先をせしめる校長たち。教育委員会や各種学校などの天下り先をせしめる校長たち。
○ 「無意味な」「骨抜き」「黒い裏社会」「なれ合い」「保身」「悪徳」「裏取引」「天下り」等々の言葉が除去されればご指摘の通りだと思いますが、それは一般企業でも同じことで、特に「実施教育行政」の弁別特徴にはならないと思います。
● 担当教諭の資質の問題。力任せの体育教師や生徒指導で脅しと権威でのしあがり学校を牛耳る教師。学級王国や合唱コンクール、陸上成績、部活動勝利至上主義で生徒を飼いならし、自己顕示欲を満足させる教師。普通の生活を知らず、「先生」の権威にすがり人間的資質も学力もない教師。
○ 学校にはご指摘のような問題もあるかと存じますが、とにかく、学校にいじめが発生し、それを苦にして死を選ぶなどという悲しい出来事に比べれば、どうでもいいような問題であり、各人各様に考えればよいと思います。

しかし最後の点に関しましては、今回の桐生での事件のことを考えましても、明確に異議がございます。まず「普通の生活」とは、書き手が「普通」と考えている生活であり、他者に強要すべきことではないと思います。2010年の1学期からすでに、女児の担任教諭に対して一部の児童が「うるせー、くそばばあ」と言ったり、 授業中に勝手に教室を出て行ったりする児童がいることが父母の間で問題視されていたそうです。これは、先生に「権威」がないからであり、教員と児童生徒とは平等の関係になく、この非対照的な関係が児童生徒間の平等を担保していることが理解されていない状況が現出していたわけです。いじめに関する研究書を読んでいて、教室が騒がしかったのである生徒が「静かにして!」と注意したことがいじめの原因になった事例があげられていました。「なれあい型」の学級では、「教諭は個々の子供に優しいが、規則が徹底されず、子供同士の対立が起きやす」(『読売新聞』2010年11月19日付)いと、河村茂雄(教育学)が指摘していますが、まったくその通りだと思います。明子さんが残した漫画には、「児童が反発することなく担任の話に耳を傾けている」学級の様子が描かれています。尾木直樹(教育学)は、これが「彼女の理想の世界」であったと分析し、「現実があまりに違っていたため、続きを書くことができなかった」と指摘。「学級崩壊が起きている時点で、管理職は早急に担任を替えるべきだった。態勢がしっかりしておらず、彼女を見殺しにしたようなもの」(『読売新聞』2010年11月17日付)としています。学校をめぐる問題で「いじめ」が顕著な問題になったのは、「葬式ごっこ」事件のあった1980年代という明確な日付けを持っています。この時期に日本はバブル経済に入り、この時期から大学への進学率が飛躍的に伸張しました。1970年代までは、人口が伸びているのに、大学進学率は数人に一人であり、大学進学者の多くは、親世代が戦前に旧制中学や旧制高校に通った階層に属する、いわば「身分制社会」でした。しかし、経済的活況とともに、「自分は高校までしか行けなかったが、せめて子供には大学に行かせてやりたい」という当然の希望が起こり、今日、各年代の過半数が大学に進学するようになりました。「いじめ」の顕著な発生が、そうした平等意識、「人間は平等である」というそれ自体は正しい考え方が、さらに「平等でなくてはならない」という強迫観念になった時期に、「いじめ」が多発するようになったということは、意味深長です。みんな平等なのだから、運動会でも差をつけてはならないと手を繋いでゴールするなどという漫画的な状況まで現出しました。こうした風潮のなかで、先生の「権威」は疑われ、児童生徒の「友だち」になってしまったのです。河村茂雄が「なれあい型」学級というのがまさにそれで、学級崩壊の前兆です。改めていうまでもなく、先生は「友だち」ではありません。明子さんが残した漫画には、転校してきた「関口桜」という主人公が、「これからよろしくお願いします」とあいさつし、担任教諭が「転校生なので仲良くしてあげてください」などと紹介する場面が描かれています(『毎日新聞』2010年10月27日付)。担任が「転校生なので仲良くしてあげてください」と行為遂行的な言葉を生徒に向かって与えることができるのは、教員と生徒の関係が「平等ではない」からです。そして、児童生徒間が「平等である」という関係は、生徒に対して教員が「平等でない」関係にある、別の言葉でいえば「権威」を持っていることを担保にしています。例えば、高等教育などでは、こうした意識は大した問題ではありませんが、小中学校では、児童生徒に共通のルールを守らせ、規範意識を身につけさせるために極めて重要なものだと思います。明子さんの担任教諭は悪人ではないでしょう。むしろ、優しい良い人だったからこそ、生徒たちがルールを守ることをせず「学級崩壊」に至り、それが「いじめ」の温床になったのだと思います。まさに、「地獄への道は善意で敷き詰められている」ということの実例ではないでしょうか
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