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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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保護者の監督責任を問う裁判 次回日程

  1. 2013/10/24(木) 12:47:41|
  2. 裁判関係
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
桐生市いじめ自殺事件の保護者の監督責任を問う裁判 

次回日程が決まりました。
11月29日(金)15時30分より1時間

前橋地方裁判所

本裁判の結審12月6日(金)の1週間前です
関連記事
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  1. 2013/10/26(土) 20:22:17 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
「『因果関係がなければ責任はない』という命題が自明の前提なのだろうか」

元同級生とその母親を相手取った民事訴訟のでは、元同級生側は、「いじめの事実はなかった」(『毎日新聞』2013年10月5日付)と主張しているそうです。この主張に関しては、6年生の複数の男児は、「『あっちへ行け』と言われ、しょっちゅういじめられていた」などと証言し、そのうち1人は「先生が注意しているのは見たことがない」(『読売新聞』2010年10月26日付)とも話しており、また、2010年11月8日に開催された桐生市教育委員会臨時会議において、学校側も明確にいじめを認める報告書を提出しているので、大方の予想通りの司法判断が下されるでしょう。

一方、市と県を相手取った訴訟の方では、被告側は、いじめは認めるが、自殺との因果関係は保留するという立場を取っています。つまり、大津市の中学2年生の自殺事件をめぐる裁判における第1回口頭弁論と同じ立場を取っているわけです。

立教大学の北澤毅(教育学)は、「『教育と責任』の社会学序説 – 因果関係責任問題の考察」(『教育社会学研究』第90集、2012年)において、他ならぬ桐生のいじめ自殺事件を採り上げて、示唆に富む議論を展開しています。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/90/0/90_5/_pdf

このなかで北澤は、まず「『因果関係がなければ責任はない』という命題が自明の前提なのだろうか」と問題提起をし、「突然のめまいに襲われたAが階段で躓いた勢いで前を歩いていたBにぶつかり転倒した怪我をしたとうしよう」と仮定し、たとえその行為自体に「悪意」や「意志」が存在しなくても、「もし、AがBに対して謝罪や援助行為をせずその場を立ち去ったとするなら、その一連のAの行為に対して非難が生じる可能性は高い」とし、それは、「『躓きと転倒』という因果関係とは異なる新たな社会的相互行為に対する評価ということになる」として、原因は責任根拠ではないと主張している。 
 つまり、「責任の根拠としての原因」という思考の呪縛から逃れられないからこそ、「『さらなる原因究明が待たれる』という語り口や加害者側の事態終了宣言を突破する対抗言説を紡ぎ出せない」(16頁)というのだが、「多くの自殺は、複合的な要因から発生します」(「小6自殺報道(群馬)から考える自殺予防の心理学」)
という、碓井真史による桐生の事件に関するコメントなどはその典型と言えるでしょう。
 北澤は、小坂井敏晶(社会心理学)の『責任という虚構』(東京大学出版会、2008年)の「行為の因果関係で責任を捉えると、刑罰を与える上で大きな不都合が起きる」(144頁)主張を援用し、「相互行為の系列のどこを切り取っても、そのあらゆる局面に偶然的要素が入り込む可能性を常に抱えており、むしろ条件を統制した実験状況でもないかぎり、原因から結果への直接的帰結などあり得ない」と結論づけています。
 桐生の事件において、北澤が示唆する「新たな社会的相互行為」に関して、検証すべき点は、このいじめ事件と学校関係者の対応でしょう。

1) 「5年生の時に母親から『いじめられた』という訴えがあったことは確認できたが、明子さんの勘違いだった。明子さんからいじめに関する特別な相談はなかった」と説明していた。

● いじめの訴え自身が新たないじめを生む原因になることは、1986年の中野士見中学における有名な「葬式ごっこ」事件において、被害者の中2男子が「教師に相談し、『チクリマン』といじめられ」(『読売新聞』2006年10月7日付)た事実等から明らかであり、この事実は一般によく知られている。そのようなリスクを犯してまで学校側に訴えるということは、この時点で耐えがたいいじめの実態があったことは、容易に予見できます。そして、5年次の担任自身が「『うざい、きもい』という言葉はクラスで週に1,2度の頻度で聞いた」と明確に述べています。

http://tanoshiigakko.blog.fc2.com/category3-1.html
http://tanoshiigakko.blog.fc2.com/category2-1.html

加えて、いじめが「明子さんの勘違いだった」というのは事実の誤認であり、「4年の3学期」の段階で、明子さんのいじめの事実があったことが担任によって証言されている。この時担任は、「時にはいじわるをするつもりはなくとても乱暴なことばを使う人もいるので、あまり気にしすぎないようよう」話したが、この指導は適切だったのか?この注意喚起は、「いじわるをするつもりはなくとても乱暴なことばを使う」児童にも同時になされたのか?「明子さんの勘違いだった」という主張は、いかなる根拠によるものか?校長によるいじめの事実の有無の確認はどのように行われたのか?

2) 元校長への反対尋問に以下のようなものがあります。
(反対尋問) 6月頃横山由佳教諭は、天川義子教諭からクラスの相談を受けたと言っているが、岸洋一校長は相談を受けたのか。
(答え) それは授業の進め方だけだ。

● この証言は、2013年10月28日の前橋地裁における弁論準備に先立って、病院で行われた担任教諭自身の証言と異なります。同教諭は平成22年6月頃には、クラスの児童が言うことを聞かず、うつの傾向が出て校長に相談していたことを証言している。自殺の前日である「10月22日夜に校長も出席したPTAの会合があり、明子さんの学級の児童の保護者でもあるPTA役員が『2学期になってからは特にひどい。中学に行ける状態ではない』と学級崩壊状態の深刻さを訴え」(『朝日新聞』2010年11月22日付)ほど荒廃していた学級状況を、「うつの傾向が出て」る教諭に改善できないことは、充分に予見可能であり、にもかかわらず担任を交替させなかった理由は何か?また、学級崩壊といじめを把握し、学校教育法第35条の定めるところに従い、「他の児童に傷害、心身の苦痛又は財産上の損失を与える行為」「授業その他の教育活動の実施を妨げる行為」に関して適切な措置を講じたのか?

「相互行為の系列のどこを切り取っても、そのあらゆる局面に偶然的要素が入り込む可能性を常に抱えており、むしろ条件を統制した実験状況でもないかぎり、原因から結果への直接的帰結などあり得ない」という指摘と、「『因果関係がなければ責任はない』という命題が自明の前提なのだろうか」という北澤毅の問題提起は、この裁判において、決して小さくない意味をもっているように思われます。

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