• 2017_09
  • <<
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • >>
  • 2017_11

桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

スポンサーサイト

  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

新里東小学校ではもう事件を忘れたようにしている。

  1. 2013/10/24(木) 14:32:45|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1
地元住民さんのコメントを転載します。以前のコメントについては市民の会の誤解もあったようです。
この問題を真摯に捉えていらしゃると思います。

以下転載
驚きました。
昨日子供に聞きました。
学校で黙祷など、明子ちゃんについての話は何もなかったそうです。
去年の担任の先生はちゃんとその日に子供たちに話をしてくれたのに。
まだ3年しか経っていないのにみんな随分昔の出来事だったかのように普通に過ごしているのがとても違和感があります。
絶対に忘れちゃいけない事なのに。
天国では毎日幸せに笑って過ごしているといいな。


関連記事
スポンサーサイト

  1. 2013/10/24(木) 18:49:40 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
地元市民さんのコメントとブログ主さんのご指摘に同感です。

「空しい標語と繰り返される過ち」

9月26日付の『桐生タイムス』に、「届け“誓いの言葉”いじめ防止うちわ手作り」というみどり市の記事が掲載されました。

http://kiryutimes.co.jp/2013/09/page/3

みどり市とは、桐生市の隣市で、「いじめを防ぐために自分たちができることはなんだろう―。子どもたちが自ら考えた“誓いの言葉”を大人たちに届けよう」ということで、いじめ防止うちわ防止に初挑戦し、「見て見ぬふりをしない」などの行動宣言をしたそうです。

たしかに、うちわの裏面に書かれた「言葉づかいに気をつけ、友達の良いところをたくさん見つけます」等々は、校長が述べるように「子どもたちの中から出てきた言葉」ものでしょう。また、「運動会に来る保護者や地域住民らに配る」のも、良いことではあるでしょう。

しかし、この企画と報道には、一つの死角、決して小さくない死角が存在します。それは、なぜ他ならぬ「いじめ」に特化して「見て見ぬふりをしない」との宣言が出されたかという原因・理由です。

桐生広域県の合併枠組みの混乱のなかで、東西を桐生市に挟まれているみどり市の住民が、いまから3年前に起こり、海外にまで報道された、桐生市内の小学校で起こったいじめ事件を知らないはずはありません。また、この「いじめを防ぐための」うちわ作りにこの事件が無関係なはずがありません。つまり、この『桐生タイムス』の記事は、「子どもたちの中から出てきた言葉」-- 「企画」と書かないところが正直なところですが – を前景化することによって、3年前の事件を隠す働きをしているのです。

この記事において、3年前の事件がまったく言及されていないことの異様さを指摘した論説はほとんどありません。こうして起源は忘却され、やがて「起源の忘却」さえ忘却されて行くでしょう。

広島の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。しかし、ここでは、何が「過ち」であったのか、誰が誰に対して犯した「過ち」であったのかがまったく問われておらず、東日本大震災にともなう福島の原発事故は、「過ちは繰返しませんから」が、いかに内実のない、空しい標語であったかを示しています。

明子さんが在籍した小学校の元校長は、証人尋問の際に、執拗ないじめにあっていた明子さんの自殺に関して「予見できなかった」としています。「予見できなかった」… どこかで聞き覚えのある言葉ではありませんか?われわれは、薬害エイズ事件から福島の原発事故に至るまで、「予見できなかった」という言葉を繰り返し聞かされてきました。しかし、ジャーナリズムや司法による追求によって、その遁辞が虚偽であり、政府や企業に買収された御用学者たちの一見もっともらしい意見に根拠もないことが次々と暴露されて来ました。

「予見できなかった」という言葉を聞いたら、その言葉づかいとは逆に、「格別の留意と詳細な検討が必要だ」という注意喚起だと考えるほうが実情の理解に適っています。

おそらく、桐生のいじめ事件に関しても、この事件を、たまたま「悪い」加害児童と「指導力不足」の担任の責任に矮小化しようという当局の動きや、学級崩壊を自然現象のように論じて責任の所在を曖昧にしようという御用学者の論説や、さらにこの事件を風化させようという地元マスコミの巧妙な報道が出で来ることは、あらかじめ「予見できる」ことでしょう。

ちょうど、カメラのファインダーで対象を見たとき、その視界から外れたものが見えないように、「あらわすこと」は、同時に「隠すこと」なのです。朝日、毎日から読売、産経に至るまで、日頃はその政治的主張の違いからいがみあっている全国紙も、この事件に関しては、事後の裁判に関しても精力的に取材しています。それと対照的な地元マスコミの「故意の言い落とし」には違和感を感じざるを得ません。

また、先の記事を好意的に考えるなら、1か月前に群馬会館で開催された「平成25年いじめ防止サミット」に参加した群馬県内の小学校の内の一つとして、その宣言趣旨を具現化したと言えなくもありません。

しかし、「学校で黙祷など、明子ちゃんについての話は何もなかった」という無関心を反映するかのように、明子さんの在籍した小学校は、このサミットにさえ参加していません。まだ3年しか経っていないのにみんな随分昔の出来事だったかのように普通に過ごしているのがとても違和感がある」とのご指摘は当然でしょう。

第1回口頭弁論で、被告側の答弁書では、「教員らはいじめの問題について真摯に取り組み、注意義務を尽くしてきた」(『日本経済新聞』2011年2月18日付)そうです。また、同級生側によると「いじめの事実はなかった」(『毎日新聞』2011年10月5日付)とのことです。この小学校は、「いじめの事実はなかった」のに、いじめに対する「注意義務を尽く」す奇怪な学校のようです。

地域の小中高等学校に多くの教員を輩出している地元国立大学(該当地域なら、群馬大学教育学部)は、必修課程に「いじめ」対策の講座を必ず設置すべきでしょう。

生前悪意と無責任に取り巻かれていた明子さんは、その死後さえ、虚偽と無関心によって愚弄されています。これは他人事ではありません。日本の教育のあり方が変わらなければ、いつでもわれわれの子供の上に起こることです。このような非道と理不尽がゆるされてはなりません。

 管理者にだけ表示を許可する
 


.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。