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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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コンプライアンスとフェア精神 人間のずるさ

  1. 2013/10/24(木) 17:27:37|
  2. 市民の会の意見
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
学校関係者や教育行政担当者と話した後、ほとんど嫌な後味が残る。

これはなにか。
それは彼らに感じるずるさである。

気を紛らわすのにゴルフや野球のスポーツ番組を観る。
気持ちがスカッとする。
それはルールに基づいてフェアに戦っているからである。
ときにはサッカーで汚いプレーや、偏った主審を見る。
すると嫌な気持ちになる。

ずるい教師たちを思い出す。

ガソリンスタンドでワイパーやオイル交換を勧めるしつこい売り込みを聞く。
引っ越し見積もりを頼んだだけで、もう契約を迫られる嫌な経験をした。

みな、同種の人間たちだ。カネのため違法や違法すれすれのことをして
人をだます。

コンプライアンス(法令順守)もフェア精神もみなその人間の根にあるずるさ
からきている。
もともと商品交換社会は「ずるい」人間で構成されている側面がある。
しかし、教育界は「ずるさ」一色になったらしい。
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  1. 2013/10/25(金) 07:49:51 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
ブログ主さんのご意見に同感です。

事件発生時も現在も桐生市長である亀山豊文氏は、2010年11月9日の「上村明子さんの訃報に接して」という記事のなかで、

「10月23日、新里東小学校6年の上村明子さんが、自らの命を絶たれたことに
つきまして、明子さんのご冥福をこころからお祈り申し上げます。自分の人生に終止符を打とうと覚悟するに至った明子さんの心情を思うと、どうしてそれまでに明子さんが発していたはずのSOSに気付けなかったのか本当に残念でなりません。明子さんの訃報に接して、私も直ちに事実確認や子供さん達のケア及び今後このようなことが起こらないための対策を教育委員会に指示いたしました。昨日開催された教育委員会に、明子さんに対する「いじめ」があったと認める調査結果が報告されました。学校での「いじめ」が明子さんにつらい思いをさせ、明子さんを苦しめていたことに対しまして、明子さんや明子さんのご両親に心からお詫び申し上げます。私としても、どうしてこういう「いじめ」が起き、察知がおくれたのか、自殺との関連も含めてさらなる調査を行うよう教育委員会に指示いたしました。今後は、二度とこのようなことが起こらないための対策を確立し、子供さん達や保護者の皆さんが安心して勉学に励める環境づくりに、教育委員会ともども最善の努力をして行きたいと思っております。改めて明子さんのご冥福をこころからお祈り申し上げます。」

しかし、2011年9月9日に行われた第3回口頭弁論原告側は、担任教諭らのいじめ防止義務違反などを指摘したが、市や県は「犯罪に当たるようないじめではなく、防止義務違反はないと考えている」と否定しています。

事件発生当時には、「どうしてそれまでに明子さんが発していたはずのSOSに気付けなかったのか本当に残念」として、「どうしてこういう『いじめ』が起き、察知がおくれたのか」と反省を述べながら、裁判が始まるや、一転して「陰湿で悪質ないじめとは言えず、自殺は予見出来なかった」(『朝日新聞』2011年9月10日付)などと述べています。

さらに、加害女児とその保護者への提訴では、被告側は「いじめの事実はない」などとして請求棄却を求めています。この「いじめの事実はない」というのは、市や県側による、いじめはあったが「陰湿で悪質ないじめとは言え」ないと比較しても恐るべき発言ですが、「上村明子さんの訃報に接して」での市長発言、裁判での市と県側の発言、加害女児側の主張は、互いに大きく矛盾しています。

市と県側は、「陰湿で悪質ないじめ」ではない主張で矛先をかわしたとでも思っているのでしょうが、それなら公然たるいじめなら、いじめを行っても良いのでしょうか?この主張は、2010年11月8日付の『読売新聞』による取材とも大きく齟齬します。桐生市教育委員会の関係者は、「いじめの実態があったことは、認めざるを得ない」「給食時に一人にさせていたことは異常。この事態をとらえて、いじめがなかったとは言えない」などと明言しています。

つまり、桐生市教育委員会は、給食時に明子さんが一人孤立し、その状態が放置されたことは、担任教諭も認めており、もちろん他の児童たちもそれを知っています。

市と県側による「陰湿で悪質ないじめ」ではなかったという主張は、大津の中学校におけるいじめ事件において、いじめの事実を把握していながら、担当教諭が「やりすぎるなよ」と指摘するにとどめたことを想起させます。これは、「やりすぎ」ない程度ならいじめても良いというお墨付きを加害生徒に与えたに等しい行為です。
「給食時に一人にさせていたことは異常」という、桐生市教育委員会側の主張はまっとうであり、まさに「この事態をとらえて、いじめがなかったとは言えない」のです。しかも、この孤食は、担任教諭も同級生全員が見ていたなかで行われたことです。

明子さんの死後、その遺品のなかから、給食時の孤独を気遣う同級生からの手紙も自宅で見つかり、手紙には「金曜日、はん(給食)さみしかった??ゴメンネ!!」(『上毛新聞』2010年11月6日付)と記されていたそうです。同級生の一人は、明子さんが耐えがたい苦痛と恥辱をあじわっていると知りながら、それを公然と表明すれば、次は自分がいじめのターゲットになるということを熟知していたのです。まさに、学級は「恐怖」に支配されていたのです。

そして、孤食の状態が改善されることなく継続したという事実は、担任教諭の主観的意図とは関係なく、明子さんをのけ者にしても一向に構わないというメッセージとして同級生側に受容されたでしょう。

今一度問いを整理します。いじめは、それが「陰湿で悪質な」ものでなければ良いのでしょうか?それが公然たるものであれば、いじめを行っても良いのでしょうか?「やりすぎ」ない程度のいじめなら許容すべきなのでしょうか?

いじめはあった、しかしそれは「陰湿で悪質ないじめ」ではなかった。いじめはあった、しかしそれが自殺の原因ではない … いじめを把握しておきながら、明子さんの生前事態の改善に手をこまねいていた責任者たちが、このようなことを言う資格があるでしょうか?ここには、寒々しい法廷戦術と逃げ口上があるだけで、児童生徒たちの心情を思う気持ちなど微塵もありません。日本の将来を担う子供たちが、このような詭弁を弄する教育者たちの手に委ねられていることには、誰しも戦慄を禁じ得ないでしょう。

  1. 2013/10/24(木) 18:45:52 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
これは、このあいだまた今度、といっておいた「専門性」にも関連してくることだと思うんだけど。実は、「専門性」というのは多くは幻想に過ぎない。少しばかり他より秀でている、あるいは回数をつんで慣れている、にすぎないんだよ。
ところが、職業にしてしまうと、責任を追及されて(職業だから責任を追及されるのは当然なのに)しまうのがいやなので、隠蔽したり嘘をついて逃れようとする。
逆に言えば、専門性なんて認めてやらなければ、あるいは職業として認めなければ「悪いことは悪い」と認めることもあるのだと思う。
こういった面からも私は、教育ごときを税金をふんだくって職業として成り立たせてやらないほうがいいと思っている。
こういった思いもベースにしたうえで、「学校なんていらない」といっている。もちろんそれだけではないし、感情的に思いつきで言っているわけではない。
本当に子供のことを考えるなら「学校」でなく「教育」のことを考えるべきである。しかし、文部科学省以下の教育関係者の糞どもは、「子供の教育」を考えずに「学校という組織、制度」のことを優先するばかりである。
意識改革すら望めない。
だから、学校なんていらない、のである。

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