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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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経験値から断言する数式について ベルナールさんへ

  1. 2013/11/03(日) 11:21:32|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
経験値から断言する数式について ベルナールさんへ  市民の会の1市民より

私が「今の日本で校長になるのはろくなのがいない」という危険な(?)断言を引き出す数式をお知らせします。

職業的に知り得た校長の数:15
その人物を他の一般人と比較した場合の人間性:-5・・0・・+5で表わす。
エクセルで平均評価値を出す。

その結果は、-1.8でした。

したがって私的の経験値から「ろくなのがいない」というのは妥当だと思います
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  1. 2013/11/05(火) 07:11:41 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
児玉昭平氏は、『被害者の人権』(小学館文庫、1999)という著作を書かれており、この著書のなかで、いまでも近所に住んでいる加害者になぐりかかりたい衝動を感じながも、法的解決を模索され、ある週刊誌のなかで、「事件から4年半たった今になっても、息子が殺された犯行が、いったいどういうものであって、誰がどう犯行に加わったか、法的には、何一つはっきりしないんです。すべてがうやむやのままで、私たちは真実を知らないままで、日々を暮らしているんですよ。それが少年法なんです。今、民事の裁判を進めているところですが、今に至るまで、(彼ら加害者の)誰一人として、私の家に謝罪に来た者はいません。ここは本当に法治国家なのか、と叫びたい思いです」と述べられています。

児玉氏が私的な報復を目指していただけなら、少年法に再考を求めるなどということは余計なことでしょう。立派な方もいれば、下らない者もいるということに関しては、職業や身分など何ら関係がないことは、児玉「センセー」の存在を考えれば自明でしょう。「センセーがそんなことするわけない」場合もあれば、そんなことをする場合もあるという程度のことは、子供でもわかるでしょう。

改正された少年法は、今回の提訴とも無関係ではありませんね。少年法の改正の気運を作り上げて、「被害者遺族が何も知ることが出来ないのはおかしい」という現在では常識になっている法的風土を作り上げる契機になったものは、児玉「センセー」の私的利害を超えた高貴な精神以外の何ものでもありません。

  1. 2013/11/04(月) 22:13:50 |
  2. URL |
  3. ちゃりこ父
  4. [ 編集 ]
叙勲っていうのも、ただの権威ですから。
それだけで、さも素晴らしいことと判断させられてしまうことが
「センセーがそんなことするわけない」と長きにわたって洗脳されてきたのと同じメカニズム。
残念すぎるわ。

  1. 2013/11/03(日) 19:05:47 |
  2. URL |
  3. ベルナール
  4. [ 編集 ]
「裁判支援の本筋に戻りましょう」

対象となる人物が校長であれ、会社員であれ、人間性をエクセルで数値化するというのは、どうにもこのブログの趣旨とは違う、あらぬ方向に議論が向かっているという気がします。「いじめ自殺を支援する」のが市民の会のご趣旨からとすれば、教育関係者が卑劣だのバカだのといった類のどうしようもない主張を一々耳を傾けるのは、時間と労力の無駄ではないでしょうか。

明子さんのお父様は、三回忌にあたり「真実究明」(『読売新聞』2012年)のために裁判を闘うとおっしゃっています。「真実」を究明すべき裁判を支援する会であれば、どうして蓋然性でしか語れない、つまり「そういう場合もあればそうでない場合もある」曖昧な事柄に拘泥するのか理解に苦しみます。

とにかく、この手の話にはいい加減うんざりしているので、「教育関係者は卑劣」などという与太話が、どれだけ下らないものか、学校でのいじめの問題に関心を持っている者なら、誰もが知っている例で立証致しましょう。

1993年(平成5年)に、山形市の新庄市で、いわゆる「山形マット死事件」が起こました。児玉有平君が同じ中学の生徒たちからマットに逆さに突っ込まれる形で放置され死亡しました。少年法の改正の契機となった有名な事件です。さて、有平君のお父様である児玉昭平さんは、昨年12月に藍綬褒章を受章されました。これは、幼稚園を経営されていた昭平の長年にわたる「教育功労」に対してなされた叙勲です。それでは、児玉昭平さんは、いじめ事件により子供を失われた同情すべき遺族なのでしょうか、それとも「卑劣な教育関係者」なのでしょうか?

「真実」を究明すべき裁判の結審が指呼の間に迫っているこの大切な時期に、どうして「教育関係者は卑劣」などという類いの与太話に無意味な時間と労力を使わなければならないのか、まったく理解できません。

さて、明子さんのお父様が指摘されている「真実究明」とはもっとも話であり、第三者委員会の報告書が公開されない理由としてあげられた、「プライバシーの問題や守秘義務」というのは到底納得のゆくものではありません。調査報告書の結論部分は、「新里東小学校において起こった、本件児童に対する言葉によるいじめや仲間はずれ、更には学級崩 壊を背景にした給食問題や社会科見学での出来事などの一連の出来事は、本件児童が自殺をした原因のひとつであるが、そうしたいじめ等の存在が唯一の原因で、本件児童が自殺をしたと判断することは相当ではない。いじめによる辛い思いが自殺の大きな要因のひとつではあるとしても、これ以外の、家庭環境等の他の要因も加わり、自殺を決意して実行したと判断することが相当である」(『東京新聞』2011年3月30日付)となっています。

この結論部分に、この第三者委員会の狙いを雄弁に物語っているでしょう。

1)「プライバシーの問題や守秘義務」という言葉で、あたかも遺族を思いやるためにコンプライアンスを徹底しているように見せかて、遺族に対する温情の身振りを示して恩を売る。
2)「プライバシーの問題」という言葉によって、あたかも「家庭環境」に大きな問題があるかのように暗示する。
3) そして、問題点を分散することによって、学校や教育委員会がいじめ問題を放置していたことをその背後に秘匿する。

もう一度この結論部分を精読してみましょう。ここに「学校」という言葉も「教育委員会」という言葉もないことがすぐにわかるでしょう。この第三者委員会の調査報告と称するものは、「家庭環境」を前景化し、「学校」と「教育委員会」が転校当時から発生していたいじめへの対策を取らなかったという不都合な事実を隠すために巧妙に練られた作文なのです。

今回の民事訴訟において、明子さんの自殺が、「執拗ないじめの存在」とこれに対する「教師らの不適切な対応によって生じた」ものであり、「教諭等がこれを放置し、いじめの防止ひいては自殺への結果回避をとらなかった」と訴状にあるのは、第三者委員会が背景に隠そうとした「教師らの不適切な対応」を前景化した見事な反論だと思います。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds/90/0/90_5/_pdf


先に立教大学の北澤毅(教育学)がこの桐生の事件を扱った、「『教育と責任』の社会学序説 – 因果関係責任問題の考察」(『教育社会学研究』第90集、2012年)という論文の重要性を強調したのは、これまでのいじめ事件で、被告側が必ず持ち出して来た「因果関係がなければ責任はない」というテーゼが、「『さらなる原因究明が待たれる』という語り口や加害者側の事態終了宣言を突破する対抗言説を紡ぎ出せない」(16頁)ことに読者の注意を改めて喚起するためで、碓井真史の「多くの自殺は、複合的な要因から発生します」(「小6自殺報道(群馬)から考える自殺予防の心理学」)などという、一見もっともらしいコメントが、「教師らの不適切な対応」を隠す働きにしかならないことは、ここでどんなに強調しても強調しすぎることはないでしょう。

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