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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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クサイ臭いは上から断たねば

  1. 2015/08/20(木) 06:07:25|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
教育現場のいじめの本質は、一見みんなのためにあるような公教育機関が実は強者弱者のふるい分けをする産業機関であることにある。
それは、人間という柔構造をもった存在を、産業用にひとつの型枠に流し込むための装置にするという転換に成功した時から発生した。
1960年代に発表された「期待される人間像」なる経済界が作った作文を、偏差値などというニセ科学的思考が20年の間に浸透し子供社会を一元的な価値観で統制する過程で生まれてきたものである。
もともと上を見る習性の役人的思考の教師たちが国家目標の走狗として、学校内での強者を作り弱者を排除することに奔走されてきたことにもよる。
 教育委員会は、地元コミュニティの良識に基づいて運営されるというアメリカ民主主義の思想を換骨奪胎して、地方ボスのいいように教育を牛耳るという組織に変質した。
文科省の実態は、時の政権政党のご機嫌伺いと省庁利権に乗って甘い汁を吸おうという機関に堕していることは、国立競技場問題で明らかになった。日本スポーツ振興センターに至っては、農水が競馬で儲けているので、サッカーくじを導入し、学校安全会ではいる利権も合わせ、官僚の天下り機関を作ろうという無責任機関であることが明らかである。

それでもなお、日本の教育の仕組みが官僚的であるからには、役人の目を下に向かせるには、上を変えなければダメなのである。
桐生市教育委員会もあのいじめ事件から何も学んでいない。というより自らで身を切ることを一切しない。
これは、そこにいる役人たちが「心の底から腐っている」ことを意味する。
だから、というのはそこにいる良心を亡くした教師たちには期待できないので、上の頭を挿げ替えることしかないのである。
これは悲しいことだ。それこそ日本も中国や北朝鮮と同じアジア的体質に染まりきっていることを意味するが。
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