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桐生市いじめ自殺裁判  勝利の記録

桐生市いじめ自殺裁判に勝利するまで

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pubulicという名をかぶった国民支配

  1. 2015/10/14(水) 18:12:56|
  2. 市民の会の意見
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pubulicという言葉の意味を、peopleから来ていると解するのは曲解か。
一人で行えないものを共同で委託して行う教育。
欧米では私立学校はこのような形態を取るところがある。
だから私学でもpubulicである。
日本の公教育とはこう見たとき国家教育と言った方が当たっている。
教育内容も国家が決め、地方の教育委員会も形骸化されている。
おまけにPTAなるものが、何をしているか分らぬが関東大会とか全国大会などと
文科省の提灯持ちをしている。

こういう国家教育の何が危険か。
ひとつは思想統制。画一的人間像の育成である。
しかしそれと同時現在危ないのは、国家的教育産業にのシステムが構築され
児童生徒や父母たちが収奪の対象とされていることである。

その利害をむさぼるものはほかならぬ教育を謳ったまたは騙った文部官僚や
変な大学、各種学校であり、安いアルバイト労働力を使うコンビニや飲食業界である。

こんなところまで日本は来てしまった。
そして生徒はますます気力をそがれ、生きる意欲を奪われつつある。

この国の教員の質

  1. 2015/09/01(火) 17:15:21|
  2. 市民の会の意見
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もともと教師の仕事には②面性がある。
ひとつは、子供の成長を助けるという側面。
もうひとつは、社会の要請にそって必要なことを教え込むという側面。

最初のポイントは、子供自体の意欲がなければ教育は成り立たないということと絡んでいる。
この点で、現在の早期教育は燃え尽き症候群、または無気力層を生むという社会現象を生み出している。
この点で、自分の成果達成を気にする教師たちは危険である。

次に、社会の要請とあった教育内容という点で、本当にグローバルに活躍できる人材を生み出しているかと言えばそうはいえない。
期待される人間像、そして公教育(国家教育)の目指すものが、初期には読み、書き、計算と愛国心教育であったことや、その次には
一部のエリートともの言わぬ労働力育成という目標が無理やり導入されたことで、現在の教育は歪められている。
一部の進学校を除き、進められているのはむしろ考えられない低学力生徒の育成である。これがないと、教師たちの再就職先でもある各種学校やボンクラ大学やインチキ学習塾の需要がなくなってしまう。実は文科省や役人もそこから利権を得ているから。

そして、見過ごせないのは、無理な教育。これは有り余るほどの行事やコンクール、競技をこなす雑炊学校に飽きた子供たちを統制するために必要なカポたち(看守または用心棒)として、知性の組織に入り込んできた、低学力教師が現場を蹂躙していることだ。
その顕著な例は、スポ根型の体育教師、彼らの多くは国体のメダル請負人として現場に入り込んでくる。地方自治体のスポーツかかりなどもおいしい仕事である。または通信制や教員免状を得て教育現場に入り込む者たち。言っておくがその全部が悪とは言えない。しかしその脇道を通って教育行政を牛耳るようなことが各県で起きていると思われる。ちなみに千葉県では不思議な現象がある。日教組の右派の組合役員をした者が管理職に重用されるという不思議な現象だ。

もともと教員自体はもともとみな貧しく大した収入を得られるわけではない、しかし公務員になれて少しでも退職金を多くもらいたい。そういったみみっちい人間が95%くらいだろう。
だから日本の教育は良くならないのである。



伊勢崎市のフィリピン系児童の飛び降り自殺についてのアピール

  1. 2014/12/05(金) 18:43:16|
  2. 市民の会の意見
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  4. | コメント:1
再び群馬県でフィリピン人の児童の自殺という悲しいことが起きた。私達桐生いじめ自殺裁判市民の会から見ると群馬県や桐生市が上村明子さんの裁判で謝罪するという文面だけを残し、実際には遺族に頭を下げず関係者の処罰もしないいい加減な姿勢が招いたとも見える。真相を明らかにするためには県や伊勢崎市側の委員だけでなく、「ジェントルハート」などのNPOや「外国人教育研究会」など被害者や中立的な立場に立った委員を含めた真の第三者委員会を立ち上げて調査をすることが緊急の課題であると思う。
平成26年12月5日
桐生市いじめ自殺裁判市民の会

クオレ、愛の学校

  1. 2014/11/01(土) 06:13:37|
  2. 市民の会の意見
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アミーチスの小説クオレは昔、どこの学校の図書館にもあった。

イタリアの小さな学校で、貧しい子供、弱い子供を大切にする教師に守られて
子供たちは成長する。

これが反面でない教師だ。
今や日本の学校では、クオレは読まれていないらしい。
クオレ都はイタリア語で「こころ」のことである。
日本の学校は心を失ってしまった。

反面教師としての学校と格差社会の道具、教育委員会

  1. 2014/11/01(土) 05:14:56|
  2. 市民の会の意見
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  4. | コメント:1
このいじめ事件を追っていくと分かることは
新里東小学校の校長、教頭、教務主任、
そして担任や養護教諭、偽カウンセラーが
こうあってはならないという見本のような行動を取ったことである。

悲しいかな今の子供たちは、教育の場で
悪い教育、反面教師に出会うことにある。

この学校に転校しなければ死なずに済んだのに。

そして教育委員会は、公務員としての「全体の奉仕者」という立場を捨て
弱者を切り捨てる政策の先頭に立っている。

桐生市ではもともと機織りなどで儲けた旦那衆が姿勢を牛耳っていた。
その悪習に乗って世論に傲慢に対抗する象徴が教育長だ。
市長は元織物屋の飾りに過ぎない。

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